【爪痕】

 その少年が何という名前なのか、その場に居合わせた男たちの誰ひとりとして知らなかった。
 香港の生まれでもなければ、本土から来た人間でもない。まだ10代後半、どう見てもはたちにすら手の届かない少年は、そばかすが目立つ白い肌の持ち主で、いつも何かたくらんでいるかのように、皮肉っぽい笑みを唇の端に浮かべていた。
 数週間ほど前にふらりと香港に現れたその少年は、尖沙咀(チムサーチョイ)のペニンシュラを拠点にしているらしく、ネイザンロード周辺をぶらついているのをよく目撃されていたが、さりとて観光目的だとも思えず、気づくと銅鑼湾(コーズウェイベイ)にいたり、上環(ションワン)界隈をうろついていたりもする。また、中環(セントラル)の高級ブティックで派手に散財していたかと思えば、油麻地(ヤウマーティ)のテンプルストリートで地元の人間に混じって屋台の麺をすすっていたりもする。
 要するに、神出鬼没だった。
 それに、よく目立つ。
 つねに笑っているのと、いったいどこから出てくるのか、やけに金離れがいいことから、誰がいうともなく、“笑面浪子”というあだ名で呼ばれるようになっていた。浪子とは、よくいえば風流人か伊達男、悪くいえば遊び人といった意味の言葉である。
 決して美少年ではなく、だが、不思議と見る者の記憶にその存在が深く刻まれるのは、何を考えているのか読み取ることの難しい、不遜なその笑顔と冷めた輝きを帯びた瞳のせいだったのかもしれない。
 そんな少年――笑面浪子が、夜毎に河岸を変えて豪遊しているのである。
 目立たないはずがなかった。

 

 最初の犠牲者は、金回りのいいよそ者からちょいと小遣いをせびってやろうと考えたチンピラたちだった。
 夜半、ホテルを出てきた笑面浪子がテンプルストリートに繰り出してきたところへ、チンピラたちはさも旧知の仲であるかのように親しげに声をかけた――というのは、そのシーンを目撃したとある屋台の店主の証言である。チンピラたちは、浪子を両側からはさみ込むようにして薄暗い路地の奥へと連れ込み、それきり出てこなかった。
 翌朝、路地の奥で青アザだらけになって唸っているチンピラたちが発見されたが、そこに笑面浪子の姿はなかった。チンピラたちが病院に担ぎ込まれた頃、彼はようやくベッドから出てきて、ホテルのレストランであくび混じりに遅めの朝食を食べていたのである。

 次の犠牲者は、チンピラたちの兄貴分だった。
 兄貴分といっても、それでもまだはたちかそこらの若造ばかりで、香港ヤクザの世界では結局チンピラとひとくくりにされてしまうような連中だった。
 弟分が無様にのされたのを聞いて、仇を討つつもりだったのかもしれない。
 やはり同じように、ホテルから出てきた笑面浪子を仲間たちで囲んで、有無をいわせず人目につかない場所へと連れ込み、落とし前をつけさせる――そんな計画だったのだろう。
 だろう、というのは、つまりはその兄貴分もまた、落とし前をつけるどころか、弟分と同様の醜態をさらしただけに終わったのである。

 別に浪子は、屈強なボディガードを何人も引き連れていたわけではない。つねにたったひとりで、武器になりそうなものなど何ひとつ持たずに、夜の街をうろついているだけだった。
 笑面浪子を見知る地元の人間たちは、いつしか、その気まぐれな逍遥を邪魔する者には罰が当たると、なかば冗談、半分は本気で、そう噂するようになった。
 そして、じきにその噂は、チンピラたちが“就職”している“事務所”の、かなり上のほうの人間の耳にまで届いた。
 今度はただのチンピラではない。れっきとした幹部である。

 それが3番目の犠牲者で、しかもこれまでの犠牲者よりもはるかに厄介な相手だった。

 

 凝った刺繍の入ったノースリーブのチャイナコート姿の笑面浪子は、それなりにクッションの効いた椅子に座らされていた。
 目の前には麻雀卓が置かれ、さらにその向こうには、剃り上げた頭に刺青を刺した恰幅のいい男が座っている。その周りを取り囲むのは、20人近いヤクザ者たちだった。
 時刻はまだ午後4時を回ったばかりで、本来なら営業時間のはずだが、広い雀荘の中に客の姿はない。あるのは中央の卓を占めた浪子と刺青の男、そしてヤクザたちだけである。

 ぴんと張り詰めた空気の中、浪子は自分の爪を見ている。右手の指は綺麗に磨かれ、炎を模したようなネイルアートがほどこされていたが、左手の爪はまだ形をととのえてあるだけで、ベースコートしか塗られていない。
 どうやらそれがご不満なようで、浪子はかすかに唇をとがらせ、先ほどから小さな溜息を繰り返している。
 それを、刺青の男は、額に青い癇癪筋を浮き立たせて睨みつけている。周りのヤクザ者も、声に出しての恫喝こそしなかったが、いずれも射殺すかのような視線で笑面浪子を睨んでいた。
 どんなに呑気な人間でも、今がどんな情況か判らないはずはない。
 しかし浪子は、敵意と殺意が入り混じったそれらの視線を平然と受け流している。 そんな態度が周りの男たちの怒りをいや増すと知った上で、あえてそうしているのかもしれない。笑面浪子がたびたび人を食ったような言動を見せるということは、ヤクザたちもすでに知っているはずだった。

「……名前は?」
 長すぎる沈黙のあと、刺青の男がようやく口を開いた。
 爪ばかり見ていた浪子は、初めて真正面から男の顔を見て、大袈裟に肩をすくめた。
「広東語で聞かれても判らないよ」
 浪子が返した答えはなかなか流暢な広東語だった。ヤクザたちの間に静かなざわめきが広がり、もともと浅黒い刺青の男の顔が怒気で赤黒く変わった。

 男は“烏鴉(クロウ)”と呼ばれている。肌の色からついたのか、それとも若い頃に何か逸話になるようなことでもあったのか、とにかくそういうあだ名で呼ばれているこのあたりのボスだった。
 香港の黒社会には無数の結社が割拠しているが、クロウのグループは、五指に入るとまではいかずとも、決して小さなものではない。より大きな、有力な組織の中核をになう存在ではある。
 だから、そのボスであるクロウに対して、面と向かってこんなナメたリアクションをする人間は、まずいない。
 事実、クロウの表情には、激しい怒りとともに驚きの色も浮かんでいる。
 この小僧は頭がおかしいのではないか――そう思ったのかもしれない。

 

「名前なんぞはどうでもいい」
 クロウは低く押し殺した声で呟いた。
 確かにこの生意気そうな小僧の呼び名など聞いても意味はない。
 問題なのは、この小僧にどうやって落とし前をつけさせるかということだった。
「どうでもいいっていうかさァ」
 今度は浪子のほうから口を開いた。やはり達者な広東語だった。
「――そもそも、どうしてこんなところに連れ込まれなきゃいけないのかな、このボクがさ?」
「てめえ――」
 クロウは目を細め、狼の唸りを思わせる声をもらした。
「あのネイルサロン、けっこう予約取るのが難しいんだよネ。それがようやく予約できたっていうのにさ、途中で下品なオトコたちに拉致られちゃうなんて、ちょっと理不尽じゃない?」
 ややハスキーなその声が耳障りに感じるのか、クロウは頬をひくつかせて浪子の言葉を聞いている。卓の上に置かれた右手が牌をいじっているのは、怒りに我を忘れないようにするための、一種のまじないのようなものだったのか。
 すべての牌を裏返し、クロウはゆっくりと深呼吸をした。
「てめえが何をしでかしたか、判ってねえのか……?」
「え? ボクが何かした?」
「てめえがきょうやらかしたことを、一から順に思い返してみろ」
「きょう、きょうねえ……うーんと」
 浪子はコートの懐から取り出したカチューシャで長い前髪をまとめ、芝居がかった仕種で腕を組んだ。
「そうだネ……まず、朝遅くに起きて、ホテルのカフェでブランチを食べて、予約したネイルサロンに行って、右手が綺麗になったところでむさくるしい男たちが踏み込んできて、黒塗りのバンに乗せられて――」
「そうじゃねえ!」
 クロウの大きな手が麻雀牌を引っ掴み、浪子の顔を目がけて投げつけた。これまでじっと耐えてきたクロウも、ついに我慢の限界を超えたのだろう。
 だが、この至近距離から投げつけられた牌を、浪子は軽く首を振るだけで難なくかわしてのけた。
「――――」
 一瞬、クロウもヤクザたちも、毒気を抜かれたように硬直した。相変わらずなのは浪子だけだった。
「そうじゃないって、どういうことかなァ?」
 薄い唇を吊り上げ、浪子は聞き返した。
「……その前に、何かあったろうが――」
 はたと我に返ったクロウは、椅子に腰を落ち着け、怒りを抑えて尋ねた。
「その前……って、ああ、アレのこと? ネイルサロンに行くのにメトロに乗ろうとしたら、駅前でガラの悪いオジサンたちに因縁つけられたっけ。ひょっとして、アレのこといってるワケ?」
「そいつは俺の甥っ子だ!」

 

 形ばかりに身につけていたネクタイを首から引き抜き、クロウは牌の代わりにその手に大ぶりのナイフを握った。
 クロウの一瞥を受けたヤクザが、笑面浪子の肩と腕を両側から押さえる。
「……何なのさ?」
 浪子はじろりと左右のヤクザたちを見上げたが、男にしては細すぎる浪子の力では、暴力だけが自慢のヤクザたちの腕を振りほどくことは難しいように思えた。
 ヤクザたちはそのまま浪子の上半身を卓の上に押さえつけ、両腕を背中のほうにひねり上げた。
 どん――。
 重い音がして、浪子の目の前にナイフが突き立った。
「てめえのおかげで、あいつの鼻は曲がったまんまだそうだ。今も手術室にいる」
「別にお礼をいわれるようなことは何もしてないけどね」
 自由を奪われ、焦点も合わないほどの距離でぎらつく刃を前にしても、浪子の態度は変わらなかった。
「この、クソガキ……!」
 卓に突き立てたナイフを引っこ抜き、クロウは叫んだ。
「しっかり押さえとけ! まずこいつの鼻から削ぎ落としてやる!」
「……あーあ。ナニいってるのかな、このヒト」
 たかだかと振り上げられたナイフを目で追いかけ、浪子はいつもの皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「ヤクザがカタギにケンカを吹っかけて返り討ちに遭って、今度はその叔父サンがしゃしゃり出てきて甥っ子の仇を討とうってワケ? 恥の上塗りもいいトコじゃない?」
 くすくすと笑いながら、はっきりとそういい放った浪子の身体が、クロウのナイフよりも速く動いた。
「――おまけに、その叔父サンまで返り討ちにされるなんてさ!」
「うお――!?」
「あぐっ!」
 浪子を押さえていたヤクザたちが、突然燃え上がった自分の両手をかかえて床に転がり、それとほぼ同時に、麻雀卓がまっぷたつになった。
「ぶっ――」
 エメラルド色の軌跡を引きずって駆け上がった浪子のかかとが、クロウの顎を打ち砕いた。
「あのさぁ……ケンカに弱いヤクザって何なの? 人間のクズ? それとも社会のゴミってヤツかな? どっちにしろ、生きてる価値ないよね」
 見事に宙を舞って危なげなく着地した浪子は、あおむけに倒れたクロウを見下ろした。だが、クロウは大の字になったままぴくりとも動かない。おそらく脳震盪でも起こしたのだろうが、たとえ意識が戻ったとしても、上下の歯がことごとく砕け散ったその顎では、まともにしゃべることさえできなかっただろう。
 クロウを見つめる浪子の冷ややかな瞳の奥で、暗い炎が燃えている。その炎はいつしか浪子の指先に宿り、白い彼の横顔を照らしていた。
 周りの男たちは、ただ呆然と、それを見ていることしかできなかった。懐に呑んでいた銃や刃物を引き抜くこともできず、驚きの声すらなく、突然のできごとに目を見開いて立ち尽くしている。
「さて、と……」
 軽く頭を揺すって髪の乱れを直した浪子は、彫像のように動きが止まってしまった男たちをぐるりと見回し、左右に広げた両手に緑色の炎をともした。
「いろいろとお世話になったお礼に、ボクが手伝ってあげるよ。……お・か・た・づ・け」

 

 雑居ビルの屋上の、錆びたフェンスの上で――。
 炎にあぶられたアジアの熱い夜風が、アッシュ・クリムゾンの長い前髪を大きくなびかせた。
 遠くから近づいてくるサイレンの音を聞きながら、薄汚れた星空に両手をかざすようにして、アッシュは自慢の爪を眺めている。毒々しいネオンサインの光を跳ね返し、長い爪が危険な輝きを帯びていた。
「たまには他人にやってもらうのも悪くないネ。……でも、こういう場合、もう一度予約を取らなきゃダメなのかなァ? まだ料金分の半分しかやってもらってないんだけど」
 くすくすと笑って、アッシュは下界へと視線を向けた。
 1本向こうの通りで、夜空を焦がすほどの激しい火の手が上がっていた。ほんの数分前、臨時休業中の雀荘がいきなり爆発したのである。
 がしかし、現場にはまだ警察も消防隊も到着していない。無責任な野次馬たちが遠巻きに眺めているだけだった。あとで週刊誌にでも売りつけるつもりなのか、さかんに写真やムービーを撮っている者もいる。
 もっとも、警察だろうとマスコミだろうと、あの爆発の原因を特定することはできないだろう。それは唯一アッシュだけが知っていることだった。
「……はいはい、みんなご苦労サマ」
 恐れる景色もなく、アッシュはフェンスの上に立ち上がり、大袈裟な仕種で肩をすくめた。
「よっぽど娯楽に餓えてるんだネ。あんなものに群がるなんてさ」
 そう呟いたアッシュが、肩越しに背後を振り返る。
「――ねえ、キミもそう思わない?」
 笑いの形に細められたアッシュのまなざしは、給水塔の影にそそがれている。
 その影が、わずかに身じろいだように見えた。
「……先ほどのあなたのお手並み、拝見させていただきました」
 影の中から返ってきた声は女のものだった。感情の起伏を抑えているが、たぶん、まだ若い。すぐ近くで炎が燃えさかっているというのに、あたりにはなぜか甘い花の香りがただよい始めていた。
 アッシュは爪の先で鼻の頭をかき、火災現場を一瞥した。
「拝見させていただいたってことは……へえ。キミもいたんだ、あそこに」
「はい」
「気づかなかったな、ぜんぜん」
「ご謙遜を」
 影の中の女は、その姿をはっきりと見せることなく、淡々と続けた。もしここに第三者の目があれば、アッシュが影と対話しているかのように見えただろう。
「……あれほどの腕前を持つおかたならばと思い、恥を忍んで声をかけさせていただきました。ひとつお聞きしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
「そうだね……ま、いうだけいってみれば? ボクが答えるかどうかは質問を聞いてから決めるヨ」
「では……あなたは、飛賊というものをご存じでしょうか?」
「飛賊? ああ……聞いたことがあるようなないような……ま、ウワサぐらいならってトコかな?」
「ならば、龍(ロン)というかたとお会いになったことは? あるいは堕瓏(デュオロン)というおかたでもかまいません。どこかでお会いになったことはありませんか?」
「あいにくだけど、どっちも聞き覚えのない名前だね」
 アッシュがかぶりを振るのに合わせて、アッシュの手首を飾る金のバングルがしゃらりしゃらりと澄んだ音を奏でる。
「――そのふたり、キミの何なの?」
「…………」
 影の中の女は答えなかった。ただ、何かのしずくがしたたるようなかすかな音がして、甘い香りが少し強くなったような気がした。
「ま、いいけどサ」
 アッシュはふたたび火災現場のほうを見つめた。
「そういうつてで人を捜してるんだったら、上海に行ってみるといいんじゃない? それとももう行ってみた?」
「上海……ですか?」
「上海にさ、そういうのが好きそうなオトコがいるんだよ。とにかく強いヤツと闘うのが大好きっていう愛すべきバカがね。……キミが捜してるヒトって、強いんでしょ?」
「……はい」
「キミより?」
「はい」
 影の女は間を置かずに断言した。
「だったらなおのこと、行ってみる価値はあると思うけどね」
「そのかたのお名前は?」
「本当の名前はボクも知らないんだ。でも、地元じゃ神武(シェン・ウー)って呼ばれてる。ちょっとした有名人だよ」
「シェン・ウーさま……」
「アハハハ、サマづけされるような上等な人間じゃないと思うけどな、アレは」
 ほっそりとした肩を揺らし、アッシュは笑った。
「――ま、それでも手がかりが掴めないようなら、いっそKOFにでも出場すればいいんじゃない? あそこにはいろんなところからいろんなヒトが集まってくるから、さ」
「……判りました。ご助力、ありがとうございます」
 そういい置いて、女の気配が唐突に消え去った。
「ふぅん――」
 コートのポケットに手を突っ込み、アッシュは笑った。
「あのふたりにちょっかい出すだけじゃ盛り上がりに欠けるかもって思ってたけど……ふぅん、何だか面白くなりそうじゃない?」
 まだマニキュアの塗られていない左手が、携帯電話といっしょに一通の白い封筒を取り出した。

 

 翌日。
 あらためてネイルサロンで左手の爪の手入れをすませたアッシュは、その足で香港国際空港へと向かった。
 売店で売られていた新聞には、昨夜の火災の記事が大きな見出しつきで掲載されていたが、アッシュがそれに目を向けることはいっさいなかった。

 笑面浪子が消えた香港は、それまでと何ら変わることのない、うだるような熱気に包まれた猥雑な都市のままであり続けた。