【相棒】
若い身空でこの業界に飛び込んだ頃は、今から考えればかなり無茶なことをやっていたような気がする。
それを自覚したのはつい最近だった。
「――あの頃のおまえさんは、まるで生き急いでいるみたいだったよ」
「わたしが?」
マグカップに口をつけようとしていたマリーは、ビジネスパートナーのその言葉に目を丸くし、思わず聞き返した。
「生き急いでいるというか……言葉は悪いが、死に場所を求めて危険な仕事ばかり選んで引き受けているような印象を受けたがね」
ジェイムズ・クーパーはレンズの丸いメガネをはずし、まぶたの上からそっと眼球を押し揉んだ。このところ老眼が進んだとかぼやいていたが、なるほど、そんな昔話をし始めるのは年を取った証拠かもしれない。
「こういったら気を悪くするかもしれんが」
新聞をたたみ、ジェイムズは苦笑した。
「……あの頃のおまえさんは、死んだ親父さんやブッチの影を追いかけているようだった。危険な仕事を選んで、それにのめり込んで、いつかこの子は親父さんたちと同じように仕事の途中で命を落とすんじゃないかって、こっちはそんなことばかり心配していたよ」
「そんなこと――一度も考えたことはないわ」
ブラインドを指で押し広げ、マリーは薄汚れた街並みを見つめた。
あの頃は、仕事以外のことを考えている余裕がなかった。いや、危険な仕事にばかり傾倒していたのは、死んだ人間の影を追い求めていたからというより、親しい人間の死から来る哀しみを忘れるためだったのかもしれない。
それに、父と恋人は死んだが、彼らがマリーに残してくれたものは彼女の中で今も息づいている。マリーのコマンドサンボはもともとブッチの影響で学び始めたものだし、そもそも彼女が格闘技を始めたのは格闘技と護身術に精通した父があってこそだ。
だから、ふたりのためにも一流のエージェントにならなければならないという意識が、ついついマリーに困難な仕事ばかりを選ばせてしまっていた部分もあったのだろう。
「けど、だからといっていまさら誰かとコンビを組んで仕事をする気にはなれないわ」
「そういうと思ったよ」
ジェイムズは苦笑混じりにコーヒーをかき混ぜた。以前のようにブラックで飲まずにミルクを足すようになったのも、やはり年を取って胃が荒れてきたからだろう。
窓辺で振り返ったマリーに、ジェイムズはいった。
「……しかしまあ、実際にコンビとして行動をともにしろってわけじゃない。基本的にはそれぞれのやり方で立ち回るが、おたがいに隠し立てせずに情報を交換し合い、必要なら協力もする。そういう円滑なやり取りをしてくれってことだよ」
「けど、一番上で手綱を握っているのはあの傭兵さんたちなんでしょう?」
「そりゃそうさ」
ぼそりと答えたジェイムズの表情からは、さっきまでの笑みが消えていた。
「……何しろ〈アデス〉絡みだからな」
ふたりでこなす仕事が、ひとりでこなす仕事よりつねに楽だとはかぎらない。
それがこれまでのキャリアの中でマリーが得た経験則だ。
ことに、本来は一匹狼であるはずのフリーのエージェントがふたり揃って足並みを揃えようとしても、うまくいかないことがほとんどだった。ベテランであればあるほど、自分のやり方、自分の仕事のペースというものを持っていて、他人にそれを乱されることを極端に嫌うからである。
どちらかがどちらかの指示に異論を唱えることなく従順にしたがい続けないかぎり、この、手練れなればこそのジレンマからは抜け出せない。
では――。
目の前のこの男は、現場でわたしのいうことにきちんとしたがってくれるだろうか?
そう自問自答しようとして、すぐに馬鹿らしくなり、マリーはカクテルのグラスをひと息にあおった。
もし自分が相手の立場でも、やはり指示にしたがいはしないだろう。
だとすれば、やはり別々に行動するのがもっとも効率がいいのかもしれない。
ジェイムズがセッティングしてくれた“同僚”との対面の席に現れたのは、マリーも何度か言葉くらいは交わしたことのある、モヒカン頭の男だった。
セス――。
本名かどうかは知らないが、業界ではそう呼ばれている。マリーよりもはるかにキャリアがあり、実際、マリーもその腕を認めざるをえないベテランエージェントだった。
「――あなた、詳しいの?」
自分の隣に座った男を一瞥し、マリーは空のグラスを押し出した。顔馴染みのマスターが、軽く肩をすくめてすぐに次の1杯を作ってくれる。
まるで最初からそう仕向けられていたかのように、ムーディなジャズの流れるバーにはほかの酔客の姿はない。BGMにまぎれるようにして、マリーとセスの会話だけが淡々と続いた。
「例の組織について、という意味ならノーだな」
バーボンをなめるように味わいながら、セスは小さく笑った。
「ま、きみより多少は知っているという程度さ。……知らないから躍起になって探っているんだよ」
「仕事として?」
「自分ではそのつもりでいたんだがね。……最近は、そのへんがよく判らなくなってきた」
セスのグラスがカウンターの表面に触れてことりと鳴る。
琥珀色の海の中で、丸く削られた氷山がゆっくりと溶けていくさまを見つめ、セスは呟いた。
「……俺は長年〈アデス〉を追い続けている。その間に、いろんな人間が死ぬのを見てきた。情報をリークしようとした組織の裏切り者が目の前で消されるのも見たし、秘密に近づきすぎた同業者が不自然な事故死をとげたこともあった。その中には俺の友人と呼べる人間も何人かいたがね」
危険がつきものの職業とはいえ、やりきれない思いも残る――自嘲気味に唇をゆがめたセスの横顔に、マリーはふと、仕事で命を落とした父や恋人のことを思い出した。
青く透き通ったカクテルが、マリーの身体の中で静かな熱に変わっていく。まだ酩酊するほど飲んではいないという自覚がマリーにはあったが、つい、思ってもいなかった言葉が口をついて飛び出した。
「仇討ちなのかしら?」
「仇討ち……か」
存外素直に答えが返ってきた。
「……かもしれんな」
「たとえ〈アデス〉のすべてを白日のもとにさらけ出すことができたとしても、死んだ人間は戻ってこないのよ? それどころか、今度は自分が消される立場に回るかもしれない」
「その覚悟がないのにこんな稼業に就く人間はいないよ」
「……そんな言葉で納得できるのは、この稼業を好きでやっている本人だけよ」
そうひとりごちたマリーの脳裏に、今度は、夫を亡くして泣き崩れる在りし日の母の姿が浮かんだ。
あの日のマリーは、母のように泣くことこそなかったが、それは単に、にわかに現実を受け入れることができず、ただ呆然としていたからにすぎない。哀しみに打ちのめされたという意味では、父と恋人を同時に失ったマリーのそれは母以上だった。
「――ミスター、ご家族は?」
マリーの唐突な問いに、セスは首をかしげた。
「妻と子供がいるが……それが何か?」
「わたしたちみたいな人間は、家族や恋人を持つべきじゃないって思ったことはない?」
「……酔ったのかい、ミス・ライアン?」
「酔うほど飲んでないわ。純粋に知りたいだけ。――どう? 今の奥さんと結婚する前に、そう思ったことは?」
「……葛藤はあったさ」
セスは大きく嘆息してうなずいた。
「きみのいうように、俺自身は、つねに最悪の事態を意識した上でこの仕事に臨んでいるつもりだよ。そんな俺が家族を持つなんてのは、確かに正しいことじゃないのかもしれない。しかし、俺のワイフは、俺以上に覚悟ってものを持ってる。俺がどういう人間で、どんな危険な橋を渡って生きているのかすべて承知した上で、俺についていきたいといってくれたんだからな」
「それはどうもごちそうさま」
「おいおい、別にのろけてるわけじゃないぜ? きみが聞きたいといったから答えたんじゃないか」
からかうようなマリーの言葉に、セスは苦笑して相好を崩した。
「そうね。……でも、お子さんは?」
「そう――残念なことに、子供には親を選ぶことはできないからな」
またひとつ、男の口から渋い溜息がもれる。
「だから子供には悪いことをしていると思うよ。まだすべてを理解するには早すぎる年だが、子供心に、父親がどうやらふつうじゃない仕事をしているんだってことだけは理解しているようだ」
「あなたが亡くなったら、きっと泣くわね」
「泣くだろうな。……だが、それでも俺は、この道を歩いていくことをやめられんのさ」
「因果なものね」
マリーは頬杖をついて溜息をついた。とうに空になったカクテルグラスの中で、溶けかけの氷がからりと小さな音を立てた。
セスはマリーの横顔を見やり、アルコール臭い吐息をもらした。
「どうもきみは、何でもかんでも深刻に受け止めちまうたちらしいな」
「……どういう意味?」
「俺にいわせりゃ、こいつは単純な確率の問題さ」
ちびちびとバーボンをなめ、セスはカウンターの向こう側でグラスを磨いているマスターをそっと指差した。
「――たとえばあのマスターだって、ある日突然、思いもよらないことで不意に命を落とすことはありうるだろう? 突然のガン告知、交通事故、飛行機事故、テロや犯罪行為に巻き込まれて死ぬことだってあるさ。どんなに善良なマイホームパパだって、寿命で死ぬまで家族のそばについていてやれるだなんて、そんな約束はできっこない」
「極論だわ」
「いったろ、確率の問題だって? 要するに俺たちは、ある日突然命を落とす確率がほかの人間より少しばかり高いってだけさ。そしてその確率は、俺たち自身の腕と意識である程度は抑えることができる。だから俺は、その万が一の瞬間が来るまでは、せめてプライベートな時間だけでも、よき父、よき夫であろうと努力しているんだよ」
「切り替えがうまいのね」
「きみが不器用すぎるだけさ」
「不器用っていわれたのは初めてだわ」
「もちろん仕事の上ではおまえさんは超一流かもしれんがね。……人の人生ってのはそれだけじゃないからな。きみは少し思いつめすぎなんじゃないか?」
あらたに用意されたカクテルをぼんやりと見つめ、マリーはジェイムズの言葉を思い出していた。
年を取った男には、自分はどうも思いつめすぎた女のように見えるらしい。
少し席をはずしていたセスが戻ってきた時、マリーはまたひとつグラスを空けていた。
「おいおい、やっぱり飲みすぎなんじゃないか、ミス・ライアン? それでいったい何杯目だい?」
「自分がどれだけ飲めば酔うか、わたしはきちんと把握しているわ」
「表に停まってるハーレーはきみのだろ? その状態であれに乗って帰るのは、逆に“確率”を大きく上げちまう行為だぜ?」
セスは椅子の背にかけておいたジャケットの懐から財布を取り出すと、指先が切れそうな紙幣を数枚取り出し、カウンターの上に置いた。
「――あしたは朝からよき父親としてすごすことになってるんでね。悪いが先に帰らせてもらうよ」
「ちょっと待って。まだ肝心な話をしていないわ」
「肝心な話? ああ、仕事の話か」
ジャケットをはおったセスは、大袈裟に肩をすくめてウインクした。
「もう結論は出てるさ。俺もおまえさんも、いまさら他人の流儀に合わせた仕事なんかやってられんだろう? そんなことは顔を合わせる前から判りきっていたことなんじゃないのか?」
「だったらジェイムズからコンタクトがあった時に、あなたのほうから断ってくれればよかったのに」
「そのミスター・ジェイムズに頼まれたからわざわざここまで来たんだよ」
「頼まれた……?」
恨みがましい表情をいぶかしげにくもらせ、マリーは首をかしげた。
「たぶん彼には、おまえさんがひどく危うく見えたんじゃないか?」
「わたしは……そんな新米じゃないわ」
「新米じゃないからこそ、だよ。新米には仕事の最中に余計なことを考えている余裕なんてないからな。おまえさんのようにキャリアも実力もある人間だからこそ、任務の最中にふと考え込んじまうってこともあるだろうさ。自分のこの生き方は本当に正しいのか、なんてな」
「……まるで見てきたかのようにいうわね」
「俺にもそんな頃があったんだよ。どうにか命を落とさずに切り抜けられたがね」
あっさりと告白し、セスはマリーに背を向けた。
「例の傭兵さんたちとの折衝は俺に任せてもらおう。きみはきみの好きなようにやるといい。……少なくとも、俺にはきみのパートナーは務まらんよ。もっと相性のいい相手を捜すことだな」
一方的にそう告げたセスが店を出ていこうとしたその時、からりとドアベルがなって、肉厚の革ジャンをはおった金髪の男が店に入ってきた。
セスは小さく笑ってその男を指差し、
「――彼なんかどうだい? お似合いだと思うがね」
「あなたが呼んだの? いったいどういう――」
「よう、マリー! 今夜はおまえの奢りなんだって?」
マリーとセスの小声のやり取りも知らぬげに、テリー・ボガードはいつもの陽気な笑顔でやってくる。マリーはそれ以上セスをなじることもできず、憮然とした表情で視線を逸らしただけだった。
「じゃ、あとは頼んだぜ、ジェントルマン」
すれ違いざまに、セスはテリーの肩を叩いて意味ありげに笑った。
「何だよ、人を呼び出しておいて自分はもう帰るのか?」
「あしたは家族サービスの日なんだよ。すまんね」
「さすがの敏腕エージェントも、奥さんと子供には勝てないってわけか」
「俺だけじゃない。大統領だって泣く子には勝てんさ」
ウインクをひとつ、セスはそのままジャケットをはおって出ていった。
入れ替わりに、ついさっきまでセスが座っていた席に腰を降ろしたテリーは、マリーが不機嫌そうな顔をしていることに今頃になって気づいたのか、怪訝そうな表情で首をひねった。
「リチャードやボブの店もいいけど、たまにはこんな静かな雰囲気で飲むのも悪くないな」
テリーの好みでいえば、本当ならバーボンやコニャックよりもビールを飲みたいところだろう。この男が好むのは陽気に騒ぐ酒だということを、マリーはよく知っている。
そんなテリーが、広い背中を丸めてカウンターに肘をつき、細かく泡立つペリエを静かに飲んでいるのは、本人曰く、「代わりに俺がハーレーを運転していくことになるから」だそうだ。
頬杖をついたてのひらに、自分の顔の火照りが伝わってきて、マリーは思わず苦笑した。
「どうした、マリー?」
「別に」
セスと飲んでいた時には、アルコールを飲んでもさほど酔いを感じていなかったのに、今は心地よい酩酊感が静かに広がり始めている。同業者とはいえ、セス相手には完全に警戒心を捨てきれずにいた自分に気づき、マリーは自分の現金さに笑ったのだった。
細い指でグラスの縁を撫で、マリーはいった。
「あの子は?」
「は?」
「ミスター・ハワードよ」
「ああ、ロックのことか。さあな、もう寝てんじゃないか?」
「あなた、仮にも保護者がそんなことでいいの?」
「いつまでもガキじゃないさ」
そういって笑ったテリーの前に、食べ応えのある大きなバゲットサンドとコーラのグラスが出てきた。マリーが知るかぎり、この店にこの手のメニューはない。テリーの好みを察したマスターが、アルコールが飲めない代わりにと、気を利かせて用意してくれたのだろう。
「サンクス」
テリーはマスターに礼をいって、遠慮なくバゲットにかじりついた。確かにテリーには、ちびちびとバーボンを飲むよりも、こちらのほうが似合っている。
バゲットをおいしそうに食べながら、テリーはマリーに何も聞かなかった。
テリーなりに気を遣っているのだろうと、マリーにはそう判った。
気を遣っているとすぐに判ってしまうのがテリーの不器用なところで、しかし、もしテリーがそうしたことをいっさいマリーに悟らせないスマートな男であったなら、たぶんマリーは――セスに対してそうであったように――テリーの前では酔った顔をいっさい見せはしなかっただろう。職業柄もあるが、本来マリーは、とても警戒心の強い女性だった。
逆にいえば、エージェントとしてのマリーの本能にそうした警戒心をいだかせないという意味で、テリーは最大限に信頼の置ける人間だった。
ふふん、と小さく笑って、マリーはカウンターの上に白い封筒を置いた。テリーの視線がそれを捉えたのを確認してから、あらためて口を開く。
「来てるでしょ、あなたのところにも?」
「ああ」
「出るの?」
「出るさ。ロックも出るっていってるし、ちょうど退屈してたところだったしな」
テリーの参戦動機がそれだけでないことをマリーは知っている。テリーとは因縁浅からぬ仲の、あのビリー・カーンが今度の大会に出てくるということを、すでにマリーは把握していた。
だが、あえてその話題には触れない。
「――そっか、ヒマなんだ」
「何だよ?」
「ふふ……折り入って話があるんだけど――」
自分でハーレーを運転して帰るつもりのなくなったマリーは、マスターにウインクして、お気に入りのカクテル――ブルー・マリーをさらにもう1杯、オーダーした。 |