確かあの日も雨が降っていた。
 つくづく雨に縁があるらしい。
 雨にけぶる窓辺に、ひび割れた鏡とニーチェにゲーテ、そして1通の白い封筒――。
 長く伸ばした髪に櫛を通しながら、アルバは苦笑した。
「“キング”……か。そう呼ばれるには、私はまだまだ貫禄不足のようだ」
 前髪がひと房、額に垂れかかる。アルバはそれを軽く払ってサングラスをかけた。
 まだガキだった頃、フェイトにいわれてかけ始めたサングラスは、今ではアルバのステータスのひとつだった。

「……ああ、おまえはそのほうがいいな。そのほうが落ち着いて見える」
「そうかな?」
「ああ。どんなに苦しくても、哀しくても、痛い思いをしても、おまえはいつもクールでいろ。決して取り乱すな。……そうすれば、ソワレたちは安心しておまえの後ろを歩いていける。リーダーってのは、どんな時でもどっしりとかまえてなきゃいけない」
「この街のリーダーはアンタだろう、フェイト?」
「気づいたらそう呼ばれていただけの話さ。本当は、痛い思いや怖い思いをするのは苦手なんだ。あとのことは若い連中に任せて、俺は早く引退したいと思ってるんだが……早く一人前になって、俺にフロリダあたりで悠々自適な老後を送らせてくれないか、アルバ?」
 なあ、アルバ……。

「――アルバ!」
 アルバの束の間の回想を断ち切るように、唐突にドアが開いて、切羽詰ったような声と足音が飛び込んできた。
 ノエルとギャラガー――ふたりとも、フェイトの下でアルバとソワレが出会った最初の“仲間”たちだ。
「おまえ、出場するって本当なのか!?」
「ああ。……誰から聞いた?」
「そりゃあ、アンのやつが……いや、そんなことどうでもいいだろ!」
 ノエルが声を荒げてテーブルを叩く。その拍子に、半分ほど中身の残ったシュナップスの瓶がごとりと鳴った。
「おまえ、自分の今の立場が判ってんのか、おい?」
「そうだ! おまえはこの街の“キング”なんだぜ? そのおまえがこの大事な時期に街を留守にして――」
「よしてくれ」
 ギャラガーの言葉をさえぎり、アルバは溜息をついた。
「私はまだフェイトの半分ほどしか生きてはいない。……そんな若僧が“キング”を名乗るなんておこがましいとは思わないか?」
「おまえがどう思うかじゃない! オレたちがどう思うか、街の連中がどう思うかだ!」
「あのクソったれな〈メフィストフェレス〉とデュークの野郎を街から叩き出したのは、ほかの誰でもない、おまえなんだぞ? だったらおまえが次の“キング”に決まってるだろ? この街には“キング”が必要なんだよ!」
「その肩書きは、今の私にはまだ重すぎる」
 アルバは静かにかぶりを振った。
「……それに、フェイトを殺したヤツはまだ生きている。フェイトの仇を討たずに彼の後継者にはなれない」
 アルバのその言葉に、ノエルとギャラガーは息を呑んだ。アルバにとってだけでなく、スラム出身のノエルたちにとっても、かつての“キング”の名前は無視できないもののはずだ。
「それに……曖昧ないい方ですまないが、今度の闘いで、何かがはっきりするかもしれない。そんな気がするんだ」
「はっきりするって……例の“夢”のことか?」
「ああ」
 繰り返し何度も見る“夢”――。
 闇よりも星のきらめきが多い、美しく輝く見覚えのない夜空の“夢”。違和感と懐かしさが入り混じる奇妙なその“夢”を、アルバが夜ごとの深い眠りの中で見るようになったのは、あれはいつからだったか。
 あの、謎めいた美貌の女と出会ってからのことのような気がしてならない。
「おまえさんがご執心の美女なら、どうやらこの街にはもういないらしいぜ」
 不意に押し黙ったアルバの胸中を見抜いたかのように、ギャラガーが呟く。
「――あれからウチの連中にいって、それとなくあちこちを捜させちゃいるんだが、今のところ手がかりはゼロだ。……それともおまえは、その美女とやらが今度の大会に出てくるとでも思ってるのか?」
「さあな。……いずれにしろ、それとこれとは別の話だ。私はただ、フェイトの墓前に胸を張って立ちたいだけさ。それに、これはこの街にとっても意味のある闘いになるだろう」
 赤い革手袋をはめた手で白い封筒を手に取り、アルバはふたりを振り返った。
「――私が留守の間、街を頼む。ソワレを助けてうまくやってくれ」
「そうはいかないからおまえを引き止めてるんじゃないか」
 苦労性のギャラガーが額に手を当てて天井を振り仰いだ。ノエルも大袈裟に肩をすくめて苦笑いをしている。
「――ソワレなら、とっくの昔に姿を消しやがったぜ」
「何?」
「あいつのところにも来てたんだよ。その、キング・オブ・ファイターズの招待状がな」
 それを聞いて、アルバは一瞬呆気に取られ、それからまた苦笑した。
「……そういえばあいつも、このところ少し様子がおかしかったな」
「まあいいさ。おまえら兄弟は、昔っからこうと決めたらてこでも動かなかった。ぜんぜん似てないように見えて、そういうところだけはそっくりだったからな」
「あとのことは気にせずに行ってこいよ。……だけど、かならずここへ戻ってくるんだぜ? オレたちの“キング”はおまえだけなんだからな」
「ああ」
 かたく握り締めた拳を仲間たちと軽く触れ合わせ、アルバは部屋をあとにした。

 鈍色の空は今もぬるい涙を流し続けている。もう何日も青空を見ていない。
「もっと光を――か。……ニーチェの気分にはほど遠いが」
 傘もささずにアパートを出て、ガレージでくすぶっていた愛車に乗り込んだアルバは、エンジンキーを回し、シート越しに伝わってきた頼もしい振動に目を細めた。つねに冷静でいようとする胸のうちに、心地よい昂揚感が広がっていく。
「結局……私は嫌いではないのだな、こういうことが」
 自分を待ち受ける闘いに胸を躍らせ――表面的にはサングラスとポーカーフェイスでそれを他人に悟らせることなく――アルバ・メイラはマスタングのアクセルを踏み込んだ。