「……あんな美人、一度会ったら忘れるはずねえんだけどなあ」
 テックスメックス・エクスプレスのダブルダブルチーズバーガーをコーラで流し込み、ソワレ・メイラはひとりごちた。
 錆の浮いた手摺に寄りかかって空を見上げる彼の脳裏には、ひと月ほど前に出会った美女の姿が今もちらついている。
 謎めいた瞳と白皙の美貌、青ざめた唇、はかなげな面差し――。
 どこかで見たことがあるような気がするというより、確かにどこかで会ったことがあるはずの女だった。ひと月やそこらではなく、もっとずっと昔、単なる行きずりではない出会い方をしたことがあるような気がしてならない。
 しかし、その美女といつどこで会ったのか、その肝心なところが、ソワレにはまったく思い出せないのである。
「あ〜〜〜〜っ! もったいねえ!」
 コーラの空き缶を握り潰し、ソワレは頭をかかえた。
「あんな美人の名前も思い出せねえなんて、何だかメチャクチャ損した気分だぜ! このソワレさまとしたことが――」
「何をひとりで騒いでるの、ソワレ?」
 ソワレが階段の踊り場でひとりぼやいていると、それをからかうような愛らしい声が下から飛んできた。
「――また何かアルバに怒られるようなことでもしちゃった?」
「おいおい、そういういい方はないんじゃないか、アン? いつもいつも兄貴に怒られてばかりのわけないだろ。オレさまだってビミョーなお年頃なんだ、人並みに悩むことだってあるんだってことを判ってほしいね」
「アルバはともかく、あなたに悩み?」
 階段を上がってきたアンは、口もとに手を当てて小さく笑った。
 アンは、ソワレがアルバとともにこの街へやってきたばかりの頃からの古い知り合いだった。いや、知り合いというと他人行儀すぎるかもしれない。アルバやソワレにとってのアンは、いっそ妹のような存在だといってもいいだろう。
 特に、アンの唯一の肉親であった母親が故人となってからは、代わりに自分たちが彼女を守ってやらなければという思いがより強くなった。
 もっとも、当のアンは、むしろソワレのことを手のかかる弟か何かのようにしか思っていないふしがある。ソワレのほうが6つも年上であるにもかかわらず、だ。
 その一方で、アンはアルバに対してはふつうに兄に接するような態度でいるから、それが余計にソワレには面白くない。
「ふん……どーせオレは兄貴と違ってそういうのが似合わねえよ」
「そうやってすねるほうがあなたには似合わないんじゃない?――はい、これ」
「はん?」
「あなたによ」
 アンの小さな手がソワレに1通の封筒を差し出す。
「オレに手紙?」
「ええ。ドアの隙間にはさまってたの」
「手紙なんて、そんなシャレたモンを送ってくるような知り合いなんざ、オレにはいないはずなんだがな――」
 受け取った封筒を何度かひっくり返してみたが、差出人の名前はどこにもない。ただ、赤い封蝋に捺された紋章がソワレの目を惹いた。
 交差する2本の鎌に猛禽の翼――。
「シュミがいいんだか悪いんだか……」
 そうひとりごちた時、ソワレの顔にはいつものお調子者めいた笑みが浮かんだままだったが、ただ、その目だけは笑っていなかった。
「……何なの?」
 封筒の中身をあらためるソワレに、アンが心配そうに尋ねる。つき合いの長いアンは、ソワレの微妙な変化を敏感に感じ取っているようだった。
「いや……別にアンが心配するようなことじゃない」
 柔らかいアンの髪をくしゃりと撫で、ソワレは破顔した。
「こいつは、何つーかまあ――お祭りへのお誘いってヤツかな?」
「お祭り?」
「要するに、このソワレさまがいなけりゃ盛り上がるモンも盛り上がらないってことなんじゃないの? いやホント、人気者はツラいねえ――っと!」
 おどけたようにかぶりを振り、次の瞬間、すでにソワレの身体は軽やかに手摺を飛び越え、宙を舞っていた。
「そんじゃま、ちょっくら行ってくるぜ!」
 数メートル下の地面に危なげなく降り立ち、何ごともなかったかのようにポケットに手を突っ込んで歩き出すソワレ。
「行くって……ちょっと! どこに行くっていうのよ、ソワレ!」
 手摺から身を乗り出して尋ねるアンに、ソワレは人懐こい笑顔でいった。
「だからお祭りだよ、お祭り! オレさまとしちゃあさ、やっぱお祭りと聞いちゃ黙ってられないじゃない?」
 砂利を踏んで歩くソワレの両足が、いつの間にかダンスのリズムを刻んでいる。
 闘いを前にするといつもこうだった。胸の奥から湧き上がってくる昂揚感に、知らず知らずのうちに身体が動いてしまう。
 頭の中で鳴り響くベリンバウの旋律に合わせてステップを踏みながら、ソワレは背中を向けたままアンに手を振った。
「――オレが出かけたこと、兄貴やノエルたちにはしばらくナイショにしといてくれよな! お土産買ってきてやるからさ!」
「ちょっと! ソワレ!」
 アンの呼ぶ声が追いかけてきたが、ソワレの歩みは止まらなかった。
 そう――悩んでいても仕方がない。
 あれこれ悩むなんていうのは、確かに自分のカラーじゃないとソワレは思う。
 そういうことは、たとえば兄貴とか、悩む姿が絵になるヤツに任せておけばいい。
「キング・オブ・ファイターズ、ね……」
 尻のポケットに封筒を押し込み、ソワレは不敵に笑った。
「――どこのどなたサマが開催なさるんだか知らないが、招待されたからには出場しないわけにはいかねえよな」
 闘いの予感に胸を躍らせるソワレの頭の中からは、さっきまでその大半を占めていたはずのあの美女のことも、もはや完全に消えてしまっていた。