コーヒーの海に浮かんだ生クリームの小さな島が、コーヒーの熱でゆっくりと溶け、次第に形を失っていく。
 そのカップに口もつけず、ルイーゼは気だるげにソファに身をうずめた。
 つけっぱなしのテレビからは、今の彼女にとってはさして意味のない情報ばかりがとめどなく垂れ流されている。朝一番に目を通した新聞にも、ルイーゼの父親の消息についてはいっさい書かれていなかった。
 デートレフ・マイリンク博士――ドイツが誇るロケット工学の世界的権威といわれたルイーゼの父が失踪して、かれこれ半年になる。
 事件直後、マスコミはこぞってこの件をスキャンダラスに書き立てた。
 博士に姿をくらますこれといった動機がないことや、マイリンク家が代々の資産家であること、それに博士が重要な学会での発表を目前にひかえていたことなどから、単なる失踪ではなく、身代金か彼の研究が目当ての誘拐事件ではないかとの憶測も飛んだが、結局、犯人からの要求のようなものはいっさいなかった。
 そして1週間がたち、ひと月がすぎ、半年が経過して、あれだけ騒いでいたマスコミも、まるで夢から醒めたかのように、この件について触れることはしなくなった。たまにニュースや新聞記事になることがあるにせよ、つまるところそれは、「マイリンク博士の消息、依然掴めず――」という一文でこと足りてしまう程度のものでしかない。
「マスコミは移り気なものだし……そして民衆はもっと移り気だわ」
 テレビを消し、ルイーゼはウインナーコーヒーのカップに手を伸ばした。
「世の中はもっと刺激的なニュースであふれ返っているのだもの、みんなが忘れ去ってしまっても仕方がないわね」
 そう呟いたノーブルな美貌が一瞬ひきつったのは、別段、けさのコーヒーが苦かったからではない。
 実の父親が何者かにさらわれて行方不明になったら、ふつうはもっと哀しんだり、苛立ちや焦りをあらわにするものだろう。しかし、今のルイーゼの淡々としたセリフは、あまりに他人ごとのようだった。
 実の父親のことだというのに、そういう見方しかできない醒めた自分を、ルイーゼはほんの少し嫌悪したのだった。
「…………」
 溜息をひとつつき、ルイーゼは空のカップを置いてソファから立ち上がった。
 思えば、ローゼンタールのこのコーヒーカップも、幼い愛娘のために、父がバイエルンの骨董屋でひと揃い見つけてきてくれたものだ。
「お嬢さま」
 急速に冷めていくカップの縁を、何とはなしに指で撫でていると、まるでルイーゼのお茶の時間が終わるのを待っていたかのように、屋敷の雑事いっさいを仕切っている執事がやってきて、マイリンク家のひとり娘に慇懃に一礼した。
「奥さまがお目醒めになられました」
「今行くわ」
 母のためにあたたかい野菜のスープを用意するよう執事に命じて、ルイーゼは母の寝室に向かった。

「おはようございます、お母さま」
「おはよう、ルー」
 ナイトガウンをはおったルイーゼの母は、日当たりのいいバルコニーで安楽椅子に腰かけ、メイドに髪を梳かしてもらっていた。
 メイドに目配せして部屋から下がらせると、ルイーゼは代わりに手ずから母の髪にブラシを通し始めた。
「――きょうは、あの人からの手紙は届いたのかしら?」
 夢見るような瞳で広い庭を見つめたまま、母が尋ねる。
 ルイーゼは母ゆずりの美しい髪を揺らしてかぶりを振った。
「お父さまはお忙しいから……来週にはきっと、講演先での写真といっしょに手紙を送ってきてくださるわ」
「筆不精という言葉は聞いたことがあるけど、あの人は逆ね。手紙を書くのは面倒じゃないのに、電話をかけてくるのが面倒だなんて……」
「そうね」
 うなずきながら、ルイーゼは人知れず溜息をついた。
 ほとんど毎日、ルイーゼと母は、同じようなやり取りを繰り返している。
 行方知れずになったまま屋敷に帰ってこない夫をひたすら気遣い、待ち焦がれるあまり、ルイーゼの母は、深く、静かに、狂ってしまった。
 自分の夫は学会での発表のために今はアメリカにいる――と、ルイーゼの母はそう信じて疑わない。それ以外の現実をすべて拒絶するかのように、彼女は、自分の夫はアメリカへと旅立ったばかりなのだと信じ込んでいる。
 だからこの半年もの間、彼女は毎朝、決まってルイーゼに、夫からの手紙が届いていないかと尋ね、そしてルイーゼも、同じように答える。
 それはたぶん、とても哀しい光景なのだと、ルイーゼは思う。
 それを哀しいと実感することができずに、たぶん哀しいのだろうなと客観的に考えてしまう自分をうとましく思いながら、ルイーゼは母に切り出した。
「お母さま」
「なぁに」
「仲のいいお友達と、ちょっと旅行に行ってきたいのですけど」
「旅行って……どのくらい?」
「たぶん、半月くらい」
「お友達ってどなた? まさか男の人?」
「幸か不幸か、そういうおつき合いのあるかたはまだいないわ」
 夫のことでおかしくなってしまっても、母親としてのこうしたところは変わらないのだと、ルイーゼはつい笑ってしまった。
「――ねえ、いいでしょう?」
「あなたのことだから心配はいらないと思うけど……いいわ。気をつけて行ってらっしゃい」
「ダンケ、お母さま」
 母の美しい髪をリボンでゆったりと束ね、ルイーゼは心の中で詫びた。

 ごめんなさい、お母さま。あなたの娘は旅行ではなく闘いに行くのです――。

 ブラシを置いたルイーゼは、母の目線を追って青い空を見上げた。
 たぶん母は、ルイーゼが屋敷からいなくなったあとも、メイドか執事を相手に、同じやり取りを繰り返すのだろう。
「――きょうは、あの人からの手紙は届いたのかしら?」と。