毎晩のように栗色の髪にブラシを入れてくれるセーラに、以前、尋ねたことがある。
「――クーラたち、どうして逃げ続けなきゃいけないの?」
 ブラシを持つ手を束の間止めて、セーラは少し哀しそうに笑った。
「そうね……」
 あてもなく逃げ続けるか、あるいは闘うか――その頃のクーラたちの日々は、そのどちらかしかなかった。
 もっとも、そうした毎日が苦痛ばかりだったというわけではない。
 これまで任務の時を除けば〈ネスツ〉の施設の外へ出ることなど許されなかったクーラにとって、K’やマキシマ、セーラたちといっしょの世界を股にかけた逃避行は、むしろ胸躍るできごとの連続だった。いっそ楽しいといってもよかった。
 だからこの時も、クーラはただ純粋に、疑問に思ったことを口にしただけだった。
 なぜ自分たちは逃げ続けなければならないのかと。
 しかし、それがセーラにとってはあまり楽しくない質問だったのだということを、クーラは彼女の表情を見て何となく察した。
 少し、胸がしくりと痛んだ。
「クーラ」
 長い沈黙のあと、クーラのこめかみから垂れたひと房の髪をアクセサリーでたばね、セーラはいった。
「……〈ネスツ〉がやっていたことが間違っていたことだというのは、あなたにももう判っているわね?」
「うん。……けど、〈ネスツ〉ならもうみんなでやっつけたじゃない」
「そうね。確かに〈ネスツ〉は滅びたわ。――けど、もう一度〈ネスツ〉を作ろうとしている悪い人たちが、世界にはたくさんいるのよ。とても残念なことだけど」
 髪を梳かしてもらったクーラは、ベッドに腰かけたセーラの隣にちょこんと座り直し、彼女の次の言葉を待った。
「……わたしたちは、そうした人たちと闘っているの」
「きのうやっつけた人たちも?」
「ええ」
「先週やっつけた人たちも?」
「そう」
 何度も繰り返されるクーラの単純な問いに、セーラはいちいちうなずいてくれた。
「――彼らをこのままにしておけば、またあらたな〈ネスツ〉が生まれてしまう。それに、彼らだってわたしたちをそっとしておいてはくれないの」
「どうして?」
「わたしたちが〈ネスツ〉によって造られた人間だからよ」
「造られた人間……だから?」
「わたしたちの身体は、〈ネスツ〉の科学力の結晶のようなものだから」
 そう答えたセーラは、さっきよりもまた少し哀しげな顔をしていた。
「簡単にいえば、新しい〈ネスツ〉になろうとしている人たちは、わたしたちを捕まえて、解剖して、あなたやK’のような、闘うための兵器としての人間を生み出そうとしているの。……判る、解剖?」
 クーラが横に首を振ると、セーラは小さく笑って、その意味をそっと耳打ちしてくれた。
「ええ!? クーラ、そんなのイヤだよ!」
「でしょ?」
 セーラはクーラの頭をそっと抱き寄せた。
「もう二度と、わたしたちのような人間を生み出しちゃいけない。だからわたしたちは〈ネスツ〉の残党と闘っているの。……いい? 確かにわたしたちは、闘うための兵器として生み出されたのかもしれない」
「闘うために、造られた……?」
「でも、それは間違ってるの。わたしたちは兵器じゃないわ。ひとりひとり、自分の意志で生きている人間なのよ」
「……うん」
 セーラの胸に顔をうずめ、クーラは深くうなずいた。
 正直、難しい話はクーラには判らない。しかし、セーラが嘘をいっていないことだけは、クーラにも判った。
 ――ダイアナやフォクシーのようにやさしく、甘えさせてくれるセーラ。
 ――見た目はゴツいけど、いろいろと物知りで面白いおじさんのマキシマ。
 ――それに、つっけんどんで乱暴な、でも実は意外に“可愛い”ところもあるK’。
 新しい“家族”のことが、クーラはとても大好きだった。

 夜中にふと目が醒めた。
 同じベッドで寝ていたはずのセーラの姿はない。
 安いモーテルだから、壁は薄くて隣の部屋の物音がやけによく聞こえる。どうやらセーラは、隣の部屋で、K’やマキシマと何か話しているようだった。
 眠い目をこすりながら、自分もみんなのところへ行こうとしたクーラは、何とはなしに聞こえてきた彼らの言葉に、はっとして立ち止まった。
 制御装置のトラブル――。
 リアクターの暴走――。
 巻島博士の居場所――。
 最初はみんなが何をいっているのかよく判らなかったが、そのうちクーラにも、大雑把に事情が呑み込めてきた。
「――――」
 クーラはベッドサイドを振り返った。
 薄闇の中で、かすかな光を跳ね返し、黄金のカスタムグローブが輝いている。
 少しだぶついたパジャマには今ひとつそぐわない、武骨なラインのカスタムグローブを両手にはめ、クーラは目を閉じた。
 変わっていく。栗色の髪が、氷の湖のようなアイスブルーに――。
 ほんの一瞬、軽く念じただけで、クーラのてのひらの上にアイスクリームくらいの大きさの氷の塊が凝結し、澄んだ音を立ててはじけた。
 自分たちが兵器ではないというのなら、ふつうの人間にはないこの力は、いったい何のためにあるのだろう?
 そういうことを、クーラは初めて真剣に考えた気がする。
 この力を何のために使えばいいか、なんとなく判ったような気もする。

「クーラも行く!」
 ドアを押し開け、クーラはいった。

 クーラには難しいことはよく判らない。
 でも、たぶんクーラは、間違ってはいない。