厳格な上官からその人物の名前を告げられた時、それが誰だったかを思い出すのに数秒ほどかかった。
「そいつは確か……」
記憶の糸を手繰りながら口を開きかけた時、隣にいた相棒が、トレードマークのサングラスを押し上げて答えた。
「例の組織にいた日系人の科学者ですね?」
重厚なマホガニーのデスクの向こうに座っていたハイデルンが、クラークの言葉に無言でうなずく。
そういえばそんな男がいたなと、心の中で相槌を打ちながら、ラルフ・ジョーンズは大袈裟に眉をひそめてみせた。
「あの男が行方不明になったっていうんですか?」
「そうだ」
「ですが、確かあの科学者は、グルームレイクの研究機関で厳重な監視下に置かれていたはずでしょう? まさかあそこから脱走したってんですか?」
「にわかには信じられん話だが……事実だ」
ハイデルンの手が、細かい字がびっしりと並んだ報告書を差し出してきた。
ラルフはそこに添えられていた写真だけを手に取って、肝心の報告書はそのままクラークに押しつけた。性格的にいって、こういう書類と睨めっこするのは、自分よりもクラークのほうが向いているとラルフは思う。これも適材適所というヤツだ。
ラルフと違って細かい文字の並びにも拒否反応を示すことなく、クラークは報告書に目を通しながら呟いた。
「現場に居合わせた警備の人間は全員死亡、セキュリティのたぐいもことごとく破壊した上での脱走ですか……」
「そいつはまた大胆でハデなやり口だ。とてもこんな痩せっぽちの科学者センセーにできる芸当じゃねえな」
ラルフは写真の中の白衣の男を一瞥して鼻を鳴らした。頭はいいのかもしれないが、この男の腕力では、おそらく田舎の警察の拘置所から脱獄することさえ不可能だろう。
ならば、彼はいかにしてその脱走劇を可能としたのか?
「誰かの手引き……?」
ハイデルン以上に寡黙――というより、無感動で無表情ですらあるレオナが、疑問を呈するようにぼそりともらした。
「もしくは、何者かに連れ去られたか――だな。おそらくその線が濃厚だろうが、しかしこの際、本人に脱走の意志があったかどうかなどどうでもいい」
ハイデルンが唯一残った瞳を静かに伏せる。
「……何者かが研究所へと侵入し、多数の警備員を殺害して、巻島博士をいずこかへと連れ去ったという事実こそが重要なのだ」
巻島博士――かつて世界的な秘密犯罪組織〈ネスツ〉に所属し、その第三工廠の開発主任を務めていたという天才科学者である。
「……どうせなら電気椅子送りにしちまえばよかったんですよ」
吐き捨てるようにラルフが毒づくと、ハイデルンは溜息混じりに首を振った。
「そうもいかん。博士にはネスツに関する多くの情報を提供してもらっている」
「確かに、あの時の司法取引のおかげで、世界各地に潜伏したネスツの残党を数多く逮捕できたのも事実ですが……」
「それに、巻島博士ほどの優秀な頭脳を平和利用しない手はないという考えにも一理ある。実際、博士はグルームレイクの研究所で、世界規模のエネルギー危機を回避する道を模索すべく、最先端の技術開発に従事していた」
「ネスツの残党どもにしてみりゃ、その巻島博士ってのは、自分たちを官憲に売った裏切り者ってことになりますよね。そいつらが復讐のために博士をさらってったって可能性もないじゃないでしょうが――」
「さもなければ、純粋に博士の頭脳を狙ったどこかの組織ってことも考えられますね」
「無論、その線での調査も進めさせてはいるが――さしあたって、おまえたちには別の任務をあたえる」
隻眼の指揮官は、ひきだしを開けて3通の白い封筒を取り出した。いずれも差出人の名はなく、ただその赤い封蝋の部分に、死神のそれを思わせる交差する2本の鎌と猛禽の翼を組み合わせた、どこか恐ろしげな紋章が捺されている。
それを一瞥し、ラルフは首をかしげた。
「何です……?」
「招待状だ。……キング・オブ・ファイターズの」
「KOF!?」
ラルフは思わず頓狂な声をあげた。いつも冷静なクラークも少しく驚いていたようで、サングラスの下の眉間にシワを寄せている。
「いったいどこのどいつがまたあんなもんを開催しようってんです?」
「それも含め、今回の事件との関連性を調査するのがおまえたちの任務だ。……アックス小隊のほうから、とある組織がこの大会の背後で動いているらしいとの情報も入ってきている」
「なるほど、毎度毎度の潜入調査……ってワケですね」
握り締めた拳を打ち鳴らし、ラルフは不敵に笑った。
もともとラルフは、足を使ってあれこれ調査するよりこういう任務のほうが性に合っている。あたえられた任務に不満はないどころか、むしろ大歓迎だった。
「……ほかに質問は?」
「いいえ!」
満面の笑みを隠そうともせず、ラルフは最敬礼した。
「――ラルフ・ジョーンズ、クラーク・スティル、レオナ・ハイデルン、以上3名、これより特別潜入調査の任に就きます!」
あたえられた任務を大声で復唱したラルフは、戦友たちとともに、適材適所という言葉の意味をよく理解している上官の部屋をあとにした。
「よっしゃ! 退屈なデスクワークともこれでオサラバだぜ!」
「デスクの上に両脚を乗っけて昼寝するのが大佐のデスクワークですか? うらやましいもんですねえ」
足早に歩きながら、クラークは資料に目を通すのに余念がない。今の皮肉もほとんど条件反射のようなものだろう。
一方、レオナは相変わらず何を考えているのか判らないような表情をしている。笑えばそれなりに可愛いのに、なかなかそれを拝ませてくれない。
しかし、この3人が組めばどんなに困難な任務でも遂行できるということを、ラルフは知っている。これまでの戦果がそれを証明していた。
数々の武功を打ち立ててきた拳を握り締め、ラルフは豪快に笑った。
「さーて……今度も派手にやらかすとするか!」 |