いつも以上に厳しい稽古を終えて、熱いシャワーで汗を流しても、頭の片隅にかかったもやもやは晴れなかった。
「どうしたの、リム? 何だか暗い顔しちゃってさ?」
 先に着替えをすませていたアリスが、釈然としない表情をしているリムに気づいたのか、首をかしげて尋ねてきた。
「別に、何でもない――けど」
 生返事を返して、濡れ髪に巻いていたタオルをほどく。
「らしくもなく緊張してるんじゃない?」
 そう口をはさんできたのは、親友のソンミだった。
 よくいえば凛々しく中性的な――悪くいえば男っぽいところのある――リムや、いつまでも子供っぽいアリスと違って、ソンミは落ち着きのある美しい大人の女性だった。実際にリムよりも少し年上で、そのせいか、ときどきこうしてリムをからかうようなことをいったりもする。
 しかし、リムはソンミの軽口に応じることなく、黙々と着替えを続けた。
 アリスは怪訝そうな表情でソンミに尋ねた。
「――ねえ、ソンミさん、リムが緊張してるってどういうことです?」
「ほら、もうすぐ例の大会でしょ? 前回はキム先生の代理ってことで出場だったけど、今回はリムが名指しで招待されたわけじゃない? それで気負っちゃってるんじゃないの?」
「え〜? そうなの、リム?」
 アリスが話を振ってきたが、リムは押し黙ったまま答えなかった。
「わたしだったら大喜びで出場しちゃうけどなあ。……だってアレでしょ? テリーさん! テリーさんに会えるんでしょ?」
 アリスはテリー・ボガードの大ファンらしい。前回の大会の時も、リムにテリーのサインをもらってきてくれと無理な注文をつけていた。
 その能天気さが無性に腹立たしく思えて、リムはつい声を荒げてしまった。
「キング・オブ・ファイターズは、そんなお気楽なものじゃない!」
「……!」
 アリスはびくっと肩を震わせて口もとを押さえた。
「観光旅行に行くんじゃない、闘いにいくのよ、わたしは! テリーさんとだって、試合で当たれば全力で闘わなきゃならない! そんな……そんな軽い気持ちで出られるものじゃないんだ、あの大会は!」
「ご、ごめん……」
 さっきまでのはしゃぎぶりが嘘のように、アリスは今にも泣きそうな顔をしてうつむいた。
 少しいいすぎたかもしれないと、リムの心に苦い後悔の念がにじんできたが、そう声に出して叫ばずにはいられなかったのも事実だった。
「本当にらしくないわね、リム」
 我関せずといいたげにコンパクトを片手にルージュを引いていたソンミが、溜息混じりに立ち上がった。
「……確かに出場したことのないわたしたちには、あの大会がどんなものなのか判らないけど、今からそんなに入れ込んでどうするの? もう少し肩の力を抜いたら? 初出場ってわけでもないんだし……」
「初めてじゃないからよ……」
 リムは簡素なベンチに腰を降ろし、両手で顔を覆った。
 前回は、ただもう夢中だった。
 余計なことは考えずに夢中で戦っていればよかった。
 だが、あの大会がどんなものか、あそこに集まってくるのがどんな格闘家たちなのか、リムはもうそれを知ってしまっている。前と同じような気持ちでいられるはずがなかった。
 リムは自分のてのひらを見つめ、かすかに震える声でもらした。
「わたしが無様な戦いをすれば、師匠の名前に泥を塗ることになる……わたしには、ただそれが怖くて――」
「呆れた……あなたそんなことで悩んでるわけ?」
「そ、そんなことっていい方は――」
 ふたたびカッとなって立ち上がったリムの視界に、突然、赤いハイヒールが飛び込んできた。
「!」
 それがソンミの蹴り足だと認識するより先に、リムの身体は勝手に動いていた。
 上半身を沈めてその一撃をかわしながら、低い位置からすり上がるような後ろ回し蹴りを放つ。完全に身体に染みついた、無駄のない動きだった。
「……もう少し自分に自信を持ったら?」
 蹴りをリムにかわされてバランスを崩したソンミは、そういって苦笑した。
 一方のリムの蹴り足は、ソンミの顔のすぐ横でぴたりと止まっていた。
「よしてよ、ソンミ……」
 ゆっくりとその足を降ろし、リムはほっと安堵の吐息をもらした。
「うまく寸止めできたからよかったようなものの――」
「だから、それがあなたの実力ってことでしょ?」
 わずかに乱れた髪を整え、ソンミはうなずいた。
「予想外の不意討ちを食らっても、今みたいに咄嗟にそれをかわして反撃に移れて、しかも相手のことを考えて手加減までできる……ほとんど一瞬のうちにそれだけのことができるあなたが、どうしてそこまで悩むのかわたしには判らないわ」
「それは……」
「確かにあなたが闘う相手はわたしなんかよりよっぽど手強い格闘家たちばかりでしょうし、今のあなたくらいの芸当はふつうにできるんだと思うけど、だからって、あなたがそこまで気負うことないじゃない」
「そ、そうかな……?」
「今の自分の力を信じてすべてを出しきって、それで玉砕するなら、それはそれでいいと思うけどね、わたしは。――第一、あなたがどんなに派手な負け方をしたって、別に先生の名前に傷なんかついたりしないわよ」
 それはただの思い上がりだとソンミは笑った。
「あなたいつからウチの道場の看板を背負えるほどに強く偉くなったの? あなたが負けても傷つくのはあなたのプライドだけでしょ。安いものだわ」
「…………」
「それよりあなた、いつまでもそんなカッコしてていいの? 風邪ひくわよ?」
「あ」
 ソンミのその言葉で、リムはようやく自分が下着姿のままでいることを思い出した。
「東大門(トンデムン)で何かおごってあげるから、早く着替えなさい」
 そういって、ソンミはアリスといっしょにひと足先に更衣室を出ていった。
「……ありがとう」
 ソンミの言葉ですべてが吹っ切れたわけではない。
 しかし、煮え切らない自分の背中を押してくれたことだけは確かだった。
 着替えをすませたリムは、鏡に向かって自分の頬を軽く叩いて気合を入れ直すと、親友たちのあとを追いかけた。