指先に、ざらついた感触がある。 
       鏡に映して確かめるまでもない。 
       それは、彼が悪魔と交わした契約書だった。 
      「ジャランジがいうには、きみの再調整は不可能だそうだ。……きみにとっては残念なニュースだったかな?」 
         暗い広間の片隅の、大理石造りの冷たい階段に腰を降ろし、太い首を撫でていたデュークは、不意に飛んできたその声にわずかに身じろぎした。 
         雷鳴がとどろき、まばゆい雷光が広間に満ちる闇を刹那の間だけ追い払う。 
         嵐が近づいていた。 
        「……あんたか」 
         肩越しに背後をかえりみたデュークの視線の先に、黒白の痩身がたたずんでいた。それを見つめるデュークの瞳が意味ありげに細められる。 
        「再調整の必要などない。……俺にはな」 
        「そうかね」 
        「ああ。それに、あんな気分の悪い目醒めを迎えるのは一度で充分だ。……どんなにひどい二日酔いでも、あれとくらべればまだマシだろう」 
         首に添えていた大きな手を拳の形に握り締め、デュークは笑った。野太く野生的な、男臭い笑いだった。 
        「二日酔い、か……アルコールをたしなまない私には無意味なたとえだ」 
         空虚な広間の中央に立ち、モノトーンの“彼”は淡々と呟いた。 
        「――きみにも判っているとは思うが、おそらくこれが、きみにあたえられる最後のチャンスになるだろう」 
        「寛大なご処置に感謝しろとでもいいたいのか?」 
        「いいや。組織がきみに求めているのは感謝の言葉でも形のない忠誠心でもなく、ただ結果のみだよ、“タイプD”」 
        「……その呼び方はよせ」 
         デュークの笑みが消え、代わりにかすかないきどおりの表情が浮かんだ。 
         そしてもう一度雷鳴がとどろき、それが消え去ったあとに、デュークは怒気を鎮めてゆっくりと続けた。 
        「……俺の名前はデュークだ」 
        「これは失礼した。……しかし、きみにあとがないということだけは動かしがたい事実なのだよ、ミスター・デューク」 
         悪びれた様子もなく、“彼”はうなずいた。 
        「――きみは〈アデス〉からあたえられた〈メフィストフェレス〉を潰され、サウスタウンでの基盤を失った。もし今度の任務にしくじるようなことがあれば――」 
        「くどい」 
         いやにもったいをつける“彼”のセリフを途中でさえぎったデュークは、ゆっくりと立ち上がって上着をはおった。 
         前の闘いで負った傷は、すでにあらかた癒えている。傷跡は残ったが、もともと傷だらけのこの肉体に、あらたに5つや6つのあらたな傷が刻まれようと、それで何かが変わるわけではない。コンディションは上々だった。 
         そのまま広間を出ていこうとするデュークに、“彼”はいった。 
        「判っているならそれでいい。……きみのはたらき次第では、ふたたび“コカベルの子供たち”の末席に加わることも可能のはずだ。奮起したまえ」 
        「敗者復活戦か……確かに〈アデス〉にしては寛大な決定だが――それより、ひとつあんたに聞いておきたいことがある」 
         激しさを増す雨音を聞きながら、デュークはふと足を止めて尋ねた。 
        「20年前、俺の――」 
        「20年前? 何かね?」 
        「……いや、いい」 
         何かいいかけたデュークは、その言葉を途中で濁らせ、けだものの唸りにも似た溜息といっしょに消し去った。 
        「昔の話だ。……いまさら何をいっても始まらん」 
        「きみが何を気にしているのかは知らないが――そう、人はただ、未来だけを見つめて生きるべきだよ」 
         重々しいきしみとともに広間の扉を押し開けたデュークの背を、しかつめらしい“彼”のセリフが追いかけてくる。 
        「過去を振り返って生きるには、人の生はあまりに短すぎる。……その拳でふたたび栄華を掴みたまえ、ミスター・デューク。そして楽しむがいい、きみの生を」 
        「ふん……気楽なものだな、大幹部どのは」 
         唇を吊り上げ、デュークは広間をあとにした。 
       激しい雷雨の音に混じって、人気のない回廊にデュークの足音がうつろに響き渡る。“彼”の“城”は、まるで廃墟のように物静かだった。 
        「……確かに昔の話だ。いまさら蒸し返してどうなる?」 
         自分自身にいい聞かせるかのように繰り返したデュークは、雲間から鋭くほとばしってはすぐに消えていく雷光に目を細めた。 
         今度の闘いで、たとえデュークが最後の勝者になりえたとしても、デュークが本当に欲していたものは、どうあがいても手に入れることはできない。それはもう、20年という時の流れによって、遠い過去へと押し流されてしまった。 
         デュークにもそのことはよく判っている。 
         判ってはいたが、闘う以外に自分が進むべき道がないのも事実だった。 
       ふと、デュークの脳裏に美しい女の顔がちらついた。 
        “彼”は、あの女にも招待状を用意したといっていた。無断で組織を離れた裏切り者には死の制裁があたえられるべきだというのが“彼”の考えであり、〈アデス〉とともに生きる者たちの宿命でもあった。だから、もしあの女が目の前に現れれば、デュークはそれを裏切り者として処分しなければならない。 
         しかし、そうと判っていても、おそらくあの女はデュークの前に現れるだろう。デュークがそうであるように、あの女もまた、いまさら取り戻すことのできない過去を引きずり続けている滑稽な人間のひとりなのだから。 
        「くだらんよ……なぁ」 
         そうひとりごち、デュークは自嘲の笑みを浮かべた。 
       そしてデュークは、嵐の夜の中へと漕ぎ出す。 
     すべての敵を叩き伏せるために。  |