たとえば道を歩いていて、目の前に大きな野良犬が現れたとする。
 わたしはそんなもの少しも恐ろしいとは思わない。
 やかましく吠え立てる声が鬱陶しければ、指先に小さな雷光をともして軽くひと振り。それだけで野良犬は尻尾の先を黒焦げにされて、情けない鳴き声をあげて逃げ去っていくし。
 たとえそれが野良犬ではなくライオンだったとしても結果は同じ。尻尾の先だけじゃなく、全身が黒焦げになるかもしれないけど。
 わたしには、怖いものなんか何もない。
 わたしにはそれだけの、おばあさまから受け継いだ“力”があるし。

 なのに、お姉ちゃんはそんなわたしを背後にかばって、声と足を震わせながら、野良犬に立ち向かおうとする。わたしはお姉ちゃんに守られるほど弱くないのに。
 っていうか、むしろわたしのほうがお姉ちゃんを守ってあげる立場だし。
 ……思った通り、お姉ちゃんのご大層な魔法は野良犬の尻尾じゃなく向こうの木立の梢を焦がして、余計に相手を興奮させただけだった。
 結局、野良犬を追い払ったのはわたしで、お姉ちゃんはきゃーきゃー騒いでただけ。
 そのくせ、犬が逃げたあとでこんなこというんだから。
「大丈夫だった、ニノン? お姉ちゃんとはぐれちゃダメよ、もう!」
 ……半泣きでそんなこといっても説得力ないし。
 第一わたしがお姉ちゃんとはぐれたわけじゃなくて、お姉ちゃんの歩みが遅くてわたしに置いていかれただけだし。
 そもそも誰もいっしょについてきてなんて頼んでないし。

「…………」
 エノク語の魔道書を何とはなしにめくっているうちに、いつの間にかうたた寝してしまっていたらしい。
 幼かった頃の記憶を束の間の夢で反芻していたニノンは、古びた魔道書を閉じ、階下の物音に耳を傾けた。
 おそらくミニョンは、きょうも無駄な努力を続けているのだろう。偉大な魔法使いだった祖母の後継者を勝手に自任している太平楽な姉――自分にはそれほどの才能がないということに、いまだに気づいていない。
「野良犬1匹追い払えなかったあの時に気づかなかったなんて……滑稽だわ」
 くすりと微笑み、ニノンは祖母が遺してくれた人形に手を伸ばした。
 その時、ふと奇妙な気配を感じた。
「……?」
 敵意――悪意と呼ぶべきか。
 独特の感覚でそれを察したニノンは、人形を抱いて立ち上がると、ほとんど足音を立てずに階段を降り、玄関ホールへと向かった。
 仕事で忙しい両親は滅多に屋敷に帰ってこない。家政婦は買い物に出かけたばかりだ。がらんとしたホールに人気はなく、しんと静まり返っている。
 だが、ニノンは確かに、何者かの無差別な悪意を感じ取っていた。
 ぴたりと閉ざされた玄関のドアに歩み寄ったニノンは、その悪意の源を発見し、恐れることなくそれを手に取った。
「……なんだか見たことのある封筒だけど」
 ドアと床の隙間から差し入れられていた封筒を拾い上げ、ニノンは玄関を出た。
 石畳で舗装されたアプローチに人影はなく、ただ、遠くへと走り去る自動車のエンジン音が聞こえたような気がした。
「礼儀知らずな郵便配達もあったものね」
 肩をすくめ、ニノンは手にした封筒をじっと見つめた。
 そこに記された紋章は、死神の鎌に猛禽の翼――ただでさえ仰々しくおどろおどろしいものだったが、まさにこの封筒こそが、ニノンが逸早く察した悪意の源泉に違いなかった。いったい誰が届けてくれたのか知らないが、どのみちろくな手合いではあるまい。
 封筒には差出人の名前はどこにもなく、表書きに姉の名前が記されているだけだった。
「……また例の格闘大会の招待状かしら」
 キング・オブ・ファイターズ――確か前回、ミニョンが初出場を果たしたいわくつきの異種格闘技トーナメントだ。
「…………」
 赤い封蝋を見つめ、ニノンは思案した。
 KOFがいかに世界最高レベルの有名な大会であろうと、本来なら、ニノンが興味を持つようなものではない。姉と同様、多少は中国拳法をかじったことはあるが、あくまでニノンは魔術師であって、格闘家ではないのだから。
 しかし、この招待状から感じた悪意の正体には興をそそられる。好奇心が旺盛なのは、魔術師にとっては美徳だ。
 自分の部屋に取って返したニノンは、ペーパーナイフを使わず、慎重に封蝋を削ぎ落として招待状を開封すると、トーナメント1回戦の試合会場とその日時を確認した。
「……お姉ちゃんのことだから、きっとまた出場するっていい出すわね。全世界に恥をさらしてるって自覚がないみたいだし」
 ひとりごちる少女の唇に、冷ややかな笑みが浮かぶ。その刹那、まだあどけない横顔に、ぞっとするような色香が一瞬だけ混じってすぐに消えた。
「――でも、ちょうどいい退屈しのぎにはなるかも」
 うまく元通りに招待状に封をしたニノンは、真冬の夜の星を思わせる美しい銀髪をかすかに揺らして部屋を出た。
 ミニョンの部屋からは、相変わらず騒々しい音がしている。これでも本人は、偉大な祖母を目標に魔法の勉強をしているつもりらしい。
「はしたないお姉ちゃんには、確かにこっちのほうがお似合いだわ」
 招待状の角を軽く噛んで忍び笑いをもらすニノン。
 姉の部屋の前に立った彼女の足元には、仮初の命を得て動き出したアンティークなビスクドールがつきしたがっていた。