ソウル郊外、キム道場の裏庭。
「――キムのダンナ、最近どうも様子がヘンでヤンスねえ」
「うほっ、おめえも気づいてたか」
 更正という名の厳しいトレーニングの合間の小休止に、大きく枝を広げた古木の木陰で汗を拭いていたチャンとチョイは、サンドバッグの前でじっとたたずんでいるキムの背中を見つめ、こそこそと小声で語り合った。
「確かにこのところ、気難しそうな顔して悩んでるみてえだよなあ」
「心ここにあらずってカンジでヤンス。いつものキムのダンナじゃないでヤンスよ、アレは」
「……なあ、ひょっとして、今なら逃げられるんじゃねえか?」
「だったらまず、チャンのダンナからためしておくんなさいよ。ダンナがうまく逃げ切れたら、あっしも続けて脱走するでヤンス」
「無理……だよなあ」
「でヤンスよねえ、たぶん……」
 チャンとチョイの脳裏に、キムに弟子入りさせられたばかりの頃の記憶がフラッシュバックしてくる。ふたりとも、何度となくキムの隙をついて脱走しようとこころみたものだが、一度として成功したためしはなかった。おそらく今のキムも、一見すれば隙だらけだが、実際には、どんな不測の事態にも見事に対応してのける態勢にあるに違いない。
「それにしても、いったいナニを悩んでんだ、キムのダンナは?」
「そうでやんすねえ……」
 指先につけた長い爪で器用に顎の先をかきながら、チョイはしたり顔でうなずいた。
「あっしが考えるに、たぶんキムのダンナは、大会に送り出したリムちゃんのことが心配なんでやんすよ」
「ああ、なるほどな。オレたちをムリヤリ参戦させる時には絶対に見せねえ心遣いだな。……チキショウ」
「あっしらと同じに考えちゃいけやせんぜ、チャンのダンナ」
 ふてくされるチャンの肩を、これまた器用に長い爪の生えた手で叩き、チョイはいった。
「いくら腕がたつとはいっても、何しろリムちゃんは女の子でヤンス。おまけに、キムのダンナがよそさまのおうちからお預かりしているお嬢さんでやんしょ? そりゃあ心配にもなるってもんでヤンス。……おまけに今度の大会は」
「ああ、そうだな……」
 もとが小悪党とはいえ、そこはやはり蛇の道は蛇というところか、チャンもチョイも、今回のキング・オブ・ファイターズの裏で、いつになく危険な――物騒な連中が糸を引いているのではないかと、うすうすと肌で感じ取っていた。キムとてそれは承知のはずだろう。
「生真面目すぎるってのも考え物だよなあ」
「でヤンスねえ」
 チャンとチョイは顔を見合わせてにやりと笑うと、ふたり揃って立ち上がった。
「――なあ、キムのダンナ」
「ん? どうした、ふたりとも?」
「代理で送り出したとか、自分は後進を育てる立場だとか、そういう細かいことにこだわってねえで、行きたいなら行っちまってもいいんじゃないんですかい?」
「そうでヤンスよ。ダンナだって、ホントはリムちゃんのことが心配なんでやんしょ?」
「おまえたち……」
 腕組みしたまま振り返ったキムは、チャンとチョイを呆然と見つめた。まさか彼らからそんなセリフを聞くとは思わなかった――そういう驚きが、その顔にありありと浮かんでいる。
 チャンは鼻の頭をこすってふふんと笑った。
「オレたちだって、ダンナとはそれなりに長いつき合いなんだ。ダンナの考えてることくらい判るつもりですぜ。……あの子の闘いぶりをそばで見守ってやりてえとか、自分ももう一度あの舞台で闘ってみてえとか、そんなこと考えてるんじゃねえんですかい?」
「そんなことであれこれ悩むくらいなら、いっそキムのダンナも出場しちまったらどうでヤンス? 招待状は届いてるんでやんしょ?」
「――――」
 しばらくふたりを見つめていたキムは、やがておだやかな笑みを浮かべてふたりの肩を叩いた。
「よくいってくれた。おまえたちが、そこまで人の気持ちを思いやれる人間に成長してくれていたとは……」
「いやぁ、それもこれもダンナの教育の賜物でさあ。――なあ、チョイ?」
「そうそう、そうでヤンスよ! ですからほら、道場のことはあっしたちにまかせて、キムのダンナは今すぐ出発したほうがいいでヤンス!」
「……しかしおまえたち」
 おだやかな笑みはそのままに、キムはどこか淡々と尋ねた。
「ひとつ聞いておくが……まさか私にリムのあとを追わせて、その隙に道場から逃げようなどと考えているのではないだろうな?」
「めめめ、めっ、滅相もねえ! だだ、だ、誰も、そっ、そんなこと、かっ、か、考えてねえですよ! なあ、ちょ、チョイ?」
「もっ、もちろんでヤンス! キムのダンナさえいなけりゃ脱走なんてチョロいだなんて、そ、そんなこと思ったこともないでヤンス! ホントホント!」
 いきなり滝のような汗をかき始めるふたり。こころなしか、ふたりの肩に置かれたキムの手に次第に力がこもりつつあるように感じられて、ふたりは狼狽気味にぶるぶると首を振った。
 キムの瞳が懲りない小悪党ふたりをじっと見据える。
「…………」
 長い長い沈黙のあと、キムは大きくうなずいた。
「……まあいいだろう」
「えっ? そ、それじゃダンナ、オレらを信じて道場のことは――」
「あまり気乗りはしないが、道場のことはジョンさんに頼むことにする。もちろんおまえたちの監督もな。私が留守の間、しっかりと修行しておくように」
「ええええええ!?」
「そっ、そりゃないでヤンスよ〜!」
 チャンとチョイが思わず絶叫すると、キムの眉間にぴくりと深いシワが寄った。
「……どういうことだ、その反応は? さてはおまえたち、やはり――」
「ちっ、違いますって! 信じてくれよ、ダンナ!」
「あ、あっしらは、ホントにダンナが悩んでるみたいだって思ったから――」
「ああ、判っているよ」
 一度は作ったけわしい表情を笑みに崩し、キムはふたたびふたりの肩を叩いた。
「――ありがとう、ふたりとも」
「……え?」
 ふたりが目を丸くした時には、すでにキムはサンドバッグに向き直り、伸び上がるようなしなやかな蹴りを炸裂させていた。
 そこには確かに、今一度自由に闘うことを許された男の歓喜の姿があった。