町の教会でのミサのあと、リリィは市場に寄った。
 市場までの途次、この町で一番古いパブの前を通ると、軒先にテーブルと椅子を持ち出してカードゲームに興じている老人たちと出会った。
 リリィは彼らのアイドルだ。
 たがいに名前も知らず、ただ週末ごとにここですれ違うだけだが、目線が合えば微笑みかけて挨拶し、彼らもハンチング帽を浮かせてそれに応える。時には彼らの足元で居眠りしている野良猫もいっしょに、あくびで応える。
 ただそれだけの関係だったが、リリィにはそれがとても心地よいもののように思えた。
「卵くださーい」
 週に1度の逢瀬をすませたリリィは、市場に寄って新鮮な卵と野菜を買った。

 兄のビリーは、リリィが作る卵料理が好物だった。
 久々にスコッチエッグにするか、それともキッシュを焼くか、あるいはスタンダードなプレーンオムレツにするか――あれこれとレシピを考えながら、町はずれに借りた小さな家に向かう。ついつい鼻歌がもれてしまうのは、リリィがしあわせを噛み締めている証拠だ。
 華やかで刺激には満ちていたが、殺伐とした後ろ暗い記憶にいろどられたサウスタウン――あの大都会での暮らしとくらべれば、リリィが兄とふたりで越してきたこの田舎町での生活は、とてもささやかで慎ましくはあったが、心おだやかでいられるものだった。
 別に裕福でなくともいい。派手さなどなくてもいい。
 リリィがずっと夢見ていたのは、兄と暮らす平穏な毎日だけだった。
 兄が、暴力とは無縁の日々に馴染んでさえくれれば――。

 かすかなきしみをあげて開いた格子門には、うっすらと錆が浮いていた。
「暇を見つけて兄さんに塗り直してもらわなきゃ」
 緑の生垣に囲まれたこじんまりとした庭先には、真っ白いシーツが風を受けてはためいていた。リリィも洗濯は好きだが、この家ではそれ以上に兄のほうが洗濯好きで、たとえリリィが洗濯をしなくとも、こうして彼女の留守中に、勝手にビリーが洗濯をすませてくれる。彼が手をつけないものといったら、せいぜいリリィの下着くらいのものだ。
「……もうちょっと干しといたほうがいいかしら?」
 胸にかかえた買い物袋を揺すり上げ、リリィはシーツに触れた。
「――あら、カーンさん」
 その時、生垣の向こうから、隣の家に住む老婦人がリリィに声をかけた。
「あ、どうもこんにちは」
 慌てて頭を下げる。ミス・マープルそっくりな――実際にはミセス・スミッソンという名の――品のいい老婆は、リリィのおさげ髪がふわりと跳ねるのを見て、メガネの奥の瞳を細めた。
「あなたたち、仲のいいご兄妹ね」
「はい?」
「あなたの無口なお兄さん、さっきおうちを出ていく時に、妹をよろしくお願いしますって、わざわざうちにいらしたのよ。お仕事で旅行ですって?」
「え――?」
 いきなり足元の地面が崩れて、底なしの穴の中に落ちていくような気がした。

 そのあとどうやって老婆との会話を切り上げたのか、リリィは自分でもよく覚えていない。はっきり覚えているのは、床の上に落ちたタマゴがぺしゃりと割れる情けない音くらいのものだった。
「兄さん――!」
 足早に家の中に入ったリリィは、ほとんど放り出すようにしてキッチンのテーブルの上に買い物袋を置くと、兄の姿を求めてドアというドアを開けていった。
 リビングにも、兄の寝室にも、自分の寝室にも、バスルームにもトイレの中にも、兄の姿はどこにもなかった。
 兄が家の中にいるわけがない。
 2時間ほど前に兄が小さな荷物だけを持って家をあとにしたと、親切な隣人が教えてくれたのだから。
 しかし、それでもリリィは兄を捜さないではいられなかった。
 目を真っ赤にして家中を捜し回り、結局またキッチンに戻ってきたリリィは、自分が放り出した買い物袋の下から、1枚の紙片がはみ出していることに気づいた。
「――――」
 震える手でそれを取り上げ、走り書きされた兄の字を読む。

 しばらく家を離れる。心配いらないから、家でおとなしく待っていろ――。

 まだサウスタウンに住んでいた頃、何度となく聞かされたことのあるフレーズだった。
 そしてそのたびに、兄はあちこち傷だらけになって帰ってきた。
 兄はリリィに自分が外で何をやっているのか、一度として教えてくれたことはなかったが、リリィとてもはや無力で世間知らずな少女ではない。兄が街の人間からどう思われているか――兄がどんな仕事をしているのか、すべてではないにしても、ある程度は気づいていた。
 だから、そんな世界から兄を引き戻すために、サウスタウンを離れてここへ引っ越してきたというのに。
「どうして……どうしてなの、兄さん――!」
 くしゃりと書き置きを握り潰し、リリィは声を震わせた。

 鳥の鳴く声で目が醒めた。
 ゆうべは真夜中すぎまで兄の帰りを待っていたが、いつの間にかテーブルに突っ伏して眠ってしまっていたらしい。泣き濡れて赤く腫れてしまった目をこすって立ち上がったリリィは、唇を噛み締めて窓の外を見やった。
 ついに兄は戻ってこなかった。やはりもうこの国にはいないのかもしれない。
 リリィはそう確信した。
 どこに向かったのかは判らないが、目的はなんとなく想像がつく。
「……止めなきゃ」
 干しっぱなしにしてしまった白いシーツが、しっとりとした露を含んだ朝風に吹かれて旗のようにひるがえっている。
 ぽつりとつぶやいたきり、ぼんやりとそれを見ていたリリィは、やにわに庭先へと飛び出すと、軒下に立てかけてあった物干し竿を掴んだ。
「わたしが兄さんを連れ戻さなきゃ――!」
 日々の洗濯で鍛えたこの細腕に、使い慣れた物干し竿がよく馴染む。
 ついついあふれそうになる涙を小さな拳でぬぐい、リリィは竿を担いで走り出した。
 たったひとりの大切な兄を、日の当たる世界に連れ戻すために。