サウスタウン、イーストアイランド――。
 この界隈でもっとも有名な店がパオパオカフェであることに、特に異論をさしはさむ者はいないだろう。
 オーナー兼マスターの名前はリチャード・マイヤ。
 カポエラを世に広めるため、妻とともにブラジルから渡米してきた、ある意味では風変わりな男である。
 当時のサウスタウンが、暗黒街の帝王ギース・ハワードによって支配されていたことは、リチャードにとっては幸運だったといえるのかもしれない。
 ギースが定期的に開催していた格闘技の祭典――裏で莫大な金が動くトトカルチョの舞台でもある――キング・オブ・ファイターズによって、サウスタウンは世界中から数多くの格闘家たちが集まる一種の聖地となりつつあった。
 そこにリチャードは、イベントスペースという名のリングを常設した店を開いたのである。
 夜な夜な腕自慢の格闘家たちがこの店のリングに上がり、その闘いを見ようと多くの客たちが集まってくる。そしてリチャード自身も、目の肥えた格闘技ファンたちの前でおのれの技を披瀝し、カポエラの何たるかを人々に知らしめるために尽力してきた。
 リチャードが見せるカポエラの妙技と臨場感あふれる熱いファイトが受けて、パオパオカフェの名は次第に広く知れ渡るようになり、やがて、街でこの店を知らない者はいないとまでいわれるほどになった。
 ギースが倒れ、このサウスタウンでKOFが開催されなくなっても、パオパオカフェは格闘家たちの“社交場”であり、リチャードは若き格闘家たちのよきアドバイザーであり続けた。

 その日の午後、リチャード・マイヤがふらりと現れたのは、自分が経営する1号店ではなく、ボブ・ウィルソンにまかせている2号店だった。
「やあ、ボブ」
「リチャード?」
 開店を数時間後にひかえた店内には、ボブ以外のスタッフの姿はまだない。カクテルライトに照らし出されるステージを手ずから丹念に磨くことを日課としているボブは、ちょうどその作業を終えたばかりだったらしく、モップを肩に担ぎ、綺麗に磨き上げられたステージを満足げに眺めているところだった。
「――どうしたんですか、いったい?」
 師ともあおぐカポエラ使いの突然の来訪に、ボブは首をかしげた。
「あなたがこんな時間に自分の店を留守にするなんて……1号店の改装は来週からでしょう?」
「いやまあ、それはそうなんだがね」
 リチャードは2号店の店内をざっと見回し、小さく笑った。
「ところで、テリーはこっちにも顔を出したのかい?」
「ああ、いらっしゃいましたよ、ロックくんといっしょに」
 肘までまくっていたシャツの袖を戻し、ボブはカウンターに入った。グラスを磨きながら、ちらりと上目遣いにリチャードを見やる。
「――またキング・オブ・ファイターズが開かれるそうですね」
 リチャードは無言でうなずき、背の高いスツールに腰かけた。
 前回のキング・オブ・ファイターズは、このサウスタウンに突如勃興したギャング団〈メフィストフェレス〉が裏ですべてを仕切っていたというもっぱらの噂だ。だが、その〈メフィストフェレス〉も壊滅し、この街の裏社会もようやく落ち着きを見せ始めている。
 そんな折も折、さらに規模を拡大したKOFが何者かに開催されることになった。テリーたちの手もとにその招待状が届いていることは、リチャードも知っている。
 ボブが出してくれたペレグリノに口をつけ、リチャードはいった。
「出るといっていたかね、あいつらは?」
「出るとはいってませんでしたよ。……でも、たぶん出るでしょう。テリーさんたちの目を見れば判ります」
「そうか……やはりテリーも出るのか」
「実はそのことで、私もリチャードに話があったんです。話というか、お願いなんですけどね」
 グラスを磨く手を止めたボブは、腰に巻いたエプロンのポケットから1通の封筒を取り出し、カウンターの上に置いた。
「私のところにも来ました。KOFの招待状です」
「ほう。出るのかい?」
「出たいです」
 ボブは迷いのない表情で即座にうなずいた。
 もともとボブは、2号店を任せる人材を捜していたリチャードが、ブラジルでストリートファイトをしているところをスカウトしてきた若者である。その才能はリチャードのみならずテリーも認めるところで、なかば第一線をしりぞいた状態にある今のリチャードより、実力的にはすでに上といっていいのかもしれない。
 ありあまる才能と情熱を兼ね備えた青年が、KOF開催のニュースを耳にして、胸を躍らせないわけがない。まさに目を見ただけでリチャードにもそれが判った。
「――だが、そうなるとこの店を誰にまかせたらいいんだい?」
「そうなんです。それで、できれば私が留守の間だけでも、リチャードにこの店を見ていてもらえないかと思っていたんですが」
「お願いというのはそのことかね?」
「はい。身勝手な頼みだということは判っているんですが……」
「気にすることはないさ。実は私のほうにも身勝手な頼みというヤツがあってね」
 リチャードはボブが置いた封筒の隣に、それとまったく同じ封筒を置いた。
「――私のところにも届いたんだよ」
 目を丸くするボブに、リチャードは軽くウインクして続けた。
「それで、できれば1号店が改装中の間、ボブに3号店のフォローも頼みたいと思っていたんだがね。いや、身勝手な頼みだということは判っているんだが」
「まったく……」
 自分のセリフを反芻したようなリチャードの物言いに、ボブは気の抜けたような笑いをもらした。
「店を開く準備を放り出して何を話しにきたのかと思ったら、あなたもだったんですね」
「久しぶりにテリーと顔を合わせたら、年甲斐もなく血が騒いできてね」
「年甲斐もなくといういい方はおかしいでしょう。本来あなたは、まだまだ老け込むような年じゃありませんよ。引退するには早すぎるでしょう?」
 ひとしきり笑ったあと、ボブはステージのほうを一瞥した。
「――どうです、久しぶりに?」
「勝ったほうはカーニバルに参加、負けたほうは店番――かね?」
「そんなところです。あいにく、ふたり揃って参戦というわけにはいかないでしょうから」
「OK、ボブ」
 スツールから降り、リチャードは上着を脱いだ。
「――若さと才能だけでは埋められない経験の差ってものを教えてあげようか」