鼓膜を震わせる轟音にふと見上げると、手に届きそうなくらい低い空を、ジャンボジェットが飛んでいく。
 日本ではなかなかお目にかかれない光景だ。
 次第に小さくなっていくジャンボをしばし見送っていた京は、視線を少しだけ降ろした。
 黒々とした高層ビル群のシルエットの向こうに、陽炎を引きずって、巨大な夕陽がゆっくりと沈んでいく。
 うらぶれた雑居ビルの屋上の、錆だらけのフェンスに寄りかかり、草薙京は飽きもせずにじっとそれを見ていた。

 こうしていると、日本にいた頃を思い出す。
 あの頃は、退屈な授業をよくエスケープして、校舎の屋上で空を見上げていた。
 雲が風に流れていくさまを眺めて気の利いた詩のフレーズを考えていたこともあれば、睡眠不足を解消するために昼寝をしていたこともある。
 いずれにしろ、それは京にとって至福のひと時には違いなかった。
 もっとも、そのささやかなしあわせも、気の弱い教師に頼まれたユキが――草薙京に面と向かって注意できる教師は少なかった――呆れ顔で呼びにくるか、さもなければ、一番弟子を自称する真吾の大きな声で中断されることが多かったが。
 あの頃は、何かとまとわりついてくる真吾を鬱陶しいと思うこともないではなかったが、今となっては、あの無意味に元気な声が聞けないというのも、それはそれで少し物足りなく感じ始めている。
 いつも退屈していたあの頃、規律に縛られる生活にうんざりしていたあの日々――周りの連中と自分とでは住む世界が違いすぎるということを肌で感じ、いつしか自分のほうから周囲に合わせることを放棄して、ただ漫然とすごしていた日本での毎日――。
 それが今では、とても懐かしく、そしてかけがえのないもののように思える。
「――らしくもねえ」
 ホームシックめいた感傷を覚えた自分を笑い、京はその場にしゃがみ込んだ。

 夜風が京の前髪を揺らして通りすぎていく。
 その心地よさに、いつの間にかうたた寝をしていたらしい。
 すでに夕陽は沈み、空の色は夜のそれへと変わっていた。
 月明らかにして星稀(まれ)なり――。
 今宵の夜空に星はなく、ただ、刃のように細い三日月だけが、薄汚れた街の上に孤独に咲き誇っている。
 膝に手を当てて立ち上がった京は、フェンスの荒い網目に指をかけた。
 人々の欲望と情熱を貪欲に呑み込んで成長していく大都市は、夜を迎えても寝静まるということを知らない。この街の夜空に星がないのは、人々が築き上げたコンクリートジャングルにともる色とりどりの光が、星々のささやかな輝きを無造作に押しのけてしまっているからだろうか。
 今また、街の郊外にある空港から離陸したジャンボジェットが、警告灯を明滅させて低い空を飛んでいく。
 そのエンジン音に顔をしかめ、頭上を行く機影を見送った京は、背後に視線を転じてにやりと笑った。

 半開きになったスチールのドアの前に、赤毛の痩身が立っていた。

「隙だらけだな、京……」
「バカいえ。てめえの気配にゃとっくに気づいてたぜ」
 京が前髪をかき上げると、異国の夜空に赤い蛍火が舞った。
「――もしてめえが後ろから不意をついてくるようなら、振り向きざまに真っ黒焦げにしてやる用意ぐらいはしてたんだがな」
「ふん」
 赤いパンツのポケットに両手を突っ込んだまま、八神庵は長い前髪の奥からきらびやかなネオンにいろどられた街を一瞥した。
「死に場所はここでいいのか?」
「誰が死ぬって?」
「そのくらいは選ばせてやる」
「そりゃまたおやさしいこって」
 揶揄するように呟いた京は、手の甲の部分に日輪を刻んだ愛用のグローブを両手にはめた。

 なぜ俺はこの男と闘うのだろう?
 ――京はときどきそんなことを考える。
 八神庵が草薙京をつけ狙うのは、いささか理解しがたい部分はあるにせよ、動機そのものははっきりしている。
 京が憎いからだ。
 だが、京自身は、庵のことを特に憎んでいるわけではない。
 もちろん、二者択一でいえばむしろ大嫌いだが、ただ、そこには憎しみの影はなく、それぞれの一族が背負ってきた因縁めいたものも、こと彼らにとってはあまり関係がない。だから、京がいちいちつき合おうとさえしなければ、庵との闘いはいくらでも避けようはあるはずだった。
 なのに、それができないのはなぜだろう?
 挑まれた勝負に背を向けるのはプライドが許さないから――という理由だけではない気がする。

「……何がおかしい?」
「いや」
 ついついもれてしまった笑みをいまさら隠すのもおかしいだろうと、京はゆっくりと首を振って身構えた。グローブに包まれた拳に炎がくすぶり、また真紅の蛍が舞い飛ぶ。
 興味のないことにはとことん背を向け、面倒なことにはいっさい手を出さない――そんな冷めきったところのある自分の胸のうちに、勃然と、熱いものが湧き上がってくるのが判る。
 庵のことはたぶん一生好きにはなれないが、庵との闘いで感じるこの高揚感は嫌いではない。
 さしあたって京には、自分が庵と闘う理由はそれで充分なように思えた。
「てめえの生き甲斐を奪っちゃ可哀相だからな」
 庵がともした美しい紫の炎を見据え、京はいった。
「――こんなトコで負けてやるわけにはいかねーんだよ!」
「いいたいことはそれだけか……?」
 庵の炎が揺らめき、その輝きを増す。ふたりの炎が夜気の中に温度差を生み出し、あたりに風を逆巻かせた。
「灰に変えてやるぞ、京……血に染まった真っ赤な灰にな!」
「洒落臭ぇ! てめえの御託にゃうんざりだぜ!」
 そしてふたりは同時に走り出した。

 因縁もなく、見守る者もなく、邪魔をする者もなく――。
 ただ、月だけがそれを見ている。