ある男の夢を見た。
 美しい長い金髪をなびかせ、烈風のように激しい“気”を叩きつけてくる、誰よりも傲慢で完全な悪の天才。
 その男と、リョウはたった1度だけ闘ったことがある。
 あの時はリョウが勝った。
 だが、本当に勝った気になれないのは、勝者であるはずの自分が満身創痍のままかろうじて立ち尽くしていたのに対し、敗者のはずのあの男が余力を残したまま闘いの場から逃亡したという事実のせいだった。
 もしあのまま、どちらかが完全に力尽きるまで闘っていたとしたら、勝者は自分ではなかったかもしれない。
 あの日の闘いを暁天の夢に反芻し、リョウは薄闇の中で静かに目を開いた。

 サウスタウンという大都市の一角にありながら、ナショナルパークには豊かな自然がまだ残っている。それが本当の意味での自然であろうと、人が人工的に作り出した自然であろうと、彼にとってはどちらでもかまわない。
 街の喧騒から離れて自分と向かい合うには、どうやらこうした環境が必要らしい。

「ヘイ!」
 巨大な瀧を遠くに望む川の流れに膝下までつかり、全身の筋肉を練るように、ゆっくりとした動きで単調ともいえる空手の型を繰り返していると、不意に陽気な男の声がかかった。
 振り返ると、あたたかそうな革ジャンを着込んだ体格のいい男が岸辺に立っていた。ナップザックをひとつ肩から下げ、いかにも自由気ままな旅の途次という風体である。
 旧友の姿を見て、リョウ・サカザキは口元にシワを刻んだ。
「偶然立ち寄った……という顔じゃないな、テリー」
「ああ。道場のほうに顔を出したら、あんたは山ごもり中だって聞いたんでね」
 乾いた地面の上に荷物を放り出し、テリー・ボガードは肩をすくめた。
「――マルコっていったっけか? あんたの道場のアフロのカラテマン、ひと勝負してくれってしつこくってな」
「その青アザはマルコにやられたか」
「向こうはこの3倍はアザだらけになってるぜ」
 唇の端を押さえてテリーは苦笑した。
「マルコのヤツ、自分から勝負を挑んで負けたのか。道場に戻ったらまた特訓だな」
 リョウもつられて苦笑しながら、しかし、決して動きを止めようとはしない。
 手頃なサイズの岩に腰を降ろしたテリーは、リョウの稽古を見て感心したように口笛を吹いた。
「ストイックなのは相変わらずらしいな。このところあまり表舞台に出てこないんでどうしたのかと思っていたんだが、このぶんじゃ、おとろえるどころかますます腕に磨きがかかっていそうだ」
 テリーのその言葉に、リョウは右の正拳をひとつ放って動きを止めた。
「――最近、思うことがあるんだが」
「何だい?」
「俺は昔より弱くなったんじゃないだろうか」
「はァ?」
 驚いたような呆れたような、そんな表情でテリーはリョウの横顔を凝視した。
「何の冗談だ? 毎日それだけの鍛錬を積んでる男が弱くなるわけないだろう?」
「確かに鍛錬は続けている。だが……そうだな、いい方が悪かったか。昔より弱くなったのではなく、昔のほうが強かったように思えるということさ」
「どう違うんだい?」
「昔は、もっとがむしゃらに闘うことができた。自分が生きるため、妹を養うため、何が何でも勝たなければならなかった。勝つということに対して貪欲でいられた。あの頃の俺の目は、闘いに臨んでもっとぎらぎらしていたはずだ」
 そう呟いて空を見上げたリョウの瞳は、その空と同じように澄み渡っていた。そのまなざしをテリーに差し向け、逆に尋ねる。
「――それは、あんたもそうだったんじゃないか?」
「……ああ。そうだったかもな」
「だが、最近はどうもそういう気持ちになれないんだ。達観してきたといえば聞こえはいいが、勝利に対する執着心が薄れてきた。たとえ負けても、いい勝負ができればそれでいい――ある時そんなふうに満たされている自分がいることに気づいて、我ながら驚いたよ」
「だったらそれは、あんたが本当に強くなったって証拠だよ。弱いヤツこそ勝ちに執着する。強いヤツは執着しない。たとえ負けてもすぐに立ち上がれる強さを持ってるからな」
「そういう考え方もある、か……」
「さもなきゃ、あんたがようやく大人になったって証拠かもしれないがね」
 テリーは立ち上がり、革ジャンのポケットに両手を突っ込んだ。
「ガキは単純だから、すぐに殴り合いで優劣をつけたがるだろう?」
「ひどいいわれようだな。――だが、だったらきょうは久しぶりに童心に戻って、その単純な殴り合いとやらをやってみるとするか」
 川から上がったリョウは、数メートルの距離を置いてテリーを見据えた。
「――別にここまでおしゃべりに来たわけじゃなかろう?」
「まあな」
 テリーは革ジャンのポケットから無造作に折りたたまれた白い封筒を引きずり出した。
「――あんたのところにも届いてるだろ?」
「ああ。特に興味はなかったが、確かに届いている」
「今も興味はないのかい?」
「いや――少し湧いてきた。いい傾向だ」
 リョウはテリーと向き合い、ゆっくりと間合いを取った。
「偶然かもしれないが……ゆうべギースの夢を見たよ」
「へえ」
「結局あの男とは、若い頃にただ1度しか闘えなかった」
「そしてあんたはあいつに勝った。……だろ?」
「俺は自分が勝ったとは思っていない。そのことがずっとしこりになって残っていた。いまさらあいつと決着をつけることはできないが、ただ、このしこりを少しだけ取り除くことはできる。……ギースに2度も勝った男に勝てば」
「俺を通してギースと決着をつけようってのかい?」
「悪いな」
「いや、かまわないさ」
 鼻の頭を軽く親指で撫で、テリーは拳を握り締めた。長かった髪を切り、トレードマークのキャップを脱いでも、その力強い構えは昔と変わらない。
 強敵を前にして、リョウは静かに息を詰めた。
 この男に勝って、今の自分の本当の強さを確かめたかった。