カリマンタンの向こうから昇った太陽が、この大地に刻まれた目に見えない赤いラインをなぞるように天球を半周し、ようやく西の海へと沈もうとしている。さっきまで降っていた雨は少し前に上がり、茜色に染まる空にはもはや雨雲のかけらもない。
 車窓越しに夕陽を見つめる“彼”の瞳は、しかし、常夏の国とは無縁の、背筋を凍りつかせるような冷気をたたえている。
 無感動で、何ごとにも動じることのない、つねに第三者的な立場を崩さない“観察者”としての冷徹なまなざし――。
 たとえ誰かと語り合っていたとしても、“彼”が相手を見つめる瞳には、なんとも形容しがたい空恐ろしさを喚起させる、無機質なカメラのレンズのような輝きが宿っていた。
「道が混んでいるようだが」
 高速道路に乗って数十分。遅々として進まないストレッチリムジンの車内で、デュークは久しぶりに“彼”の声を聞いた。腕組みをしたまま、静かに目を開く。
 正面の座席に座っていた“彼”――ジヴァートマと目が合った。
 すぐにリムジンの外へと視線を移したデュークに代わり、運転手が答えた。
「――どうやらどこかで検問をしているようです」
「検問?」
「ちょうど某国の政府要人が来訪予定で」
「それは知らなかった。このぶんでは空港でも待たされそうだが……出立の日をずらすべきだったかな?」
 もともと細い瞳をさらに細め、ジヴァートマはデュークを見つめた。
「別にかまわん」
 溜息混じりに答える。
「そうかね」
 ひとりで何か納得したようにうなずいたジヴァートマは、続けて運転手に尋ねた。
「――ところで、まさかこのクルマには、何か検問で引っかかるようなものなど積んでいないだろうね?」
「トランクには俺の荷物があるだけだ」
 今度は運転手の代わりにデュークが答えた。
「……物騒な重火器は積んでいないが、あんたは引っかかるかもしれんな」
「偶然だな、“タイプD”。私も同じようなことをいおうと思っていたところだよ。このクルマに積んであるものの中で、もっとも危険なのは――バズーカ砲やロケットランチャーなどよりも、きみなのではないかとね」
「…………」
 デュークが“タイプD”と呼ばれることを嫌っているのを承知の上で、ジヴァートマはあえてそういったのだろう。デュークの眉間に嫌悪感といきどおりをしめす深いシワが刻まれたが、ジヴァートマはそれを見ても悪びれることなく冷たく笑っていた。
「――もっとも、そんなきみだからこそ、この任務を任せられるのだがね」
「あっちの小娘にも、同じようなことをいっているんじゃないのか?」
「“タイプN”かね?」
 ジヴァートマは長い脚を悠然と組み替えて笑った。
 デュークがいえた義理ではないが、ジヴァートマがいるだけで、このリムジンの車内が急にせまくなったような気がする。痩身ながらも2メートルを軽く超えるジヴァートマの体躯は、実際以上に威圧感を周囲にあたえるものだった。
「――実のところ、私はあの少女にさほど多くを求めているわけではないのだよ。スペック的にいって、確かに隠密行動や暗殺作戦には適任かもしれないが、きみのように、すべてを真正面から叩き潰す戦闘力を有しているわけではない」
「ならばなぜ使っている?」
「ジャランジに頼まれたからだよ。彼女の性能を実戦でテストしてくれというので、〈クシエル〉の仕事を手伝ってもらっている」
 ジヴァートマは肩をすくめて笑った。
「私としても、“タイプN”用に提供した戦闘データが彼女のシステムでどこまで再現できるのか、少なからず興味があったのでね」
「なるほど」
 適当に相槌を打ったデュークは、無意識に自分の首の傷に触れていた。
 いつしかリムジンは高速を降り、雨後の緑が艶やかに匂い立つような、いかにも東南アジア的な田園風景の中を走っていた。しかし、その鬱蒼としげる緑の向こうには、近代化の象徴ともいえる高層ビルが天を摩するようにいくつもそびえている。
 林立する白いビルの群れと、そこからさして遠くないところにわだかまるスラム街。幅の広い道路を並んで走るデルマンと呼ばれる馬車と高級外国車。どこの国にも存在する貧富の差というものが、ここではあまりに鮮烈に、そして残酷に露呈されている。
 スモークのかかったガラス越しでは、外からリムジンの車内を覗くことはできない。だが、信号に引っかかって停車するたびに、自動車の間を縫って、物売りの子供たちが歩道のほうから大挙して押し寄せてくる。
 新聞、ミネラルウォーター、トロピカルフルーツ――リムジンに乗っているのが何者で、何を欲しているのかも知らないままに、日銭を稼ぐために集まってくる子供たち。
 細い顎を撫でながら、ジヴァートマはガラスに触れるほどに顔を近づけ、車外で声を張り上げて売り込む子供たちを見ている。その唇が酷薄そうに吊り上がっていた。
「――ふむ」
「いったい何が面白い?」
「これだけ多くの人間がいて……しかし、このどん底から這い上がってこられるのは果たして何人かな? それだけの力を持った人間が、この子供たちの中にどれだけいると思う?」
 なぜ急にそんなことをいい出したのかが判らなくて、デュークはジヴァートマを見やった。
 かつて――〈メフィストフェレス〉のボスに抜擢される前――デュークはジヴァートマが統べる隠密無音暗殺団〈クシエル〉で、工作員としてはたらいていた。少し前まで、デュークはジヴァートマの部下だったのである。
 だが、そんなデュークにとっても、ジヴァートマは得体の知れない男だった。
 もう20年近くも〈クシエル〉のボスであり続けているジヴァートマの、生まれ故郷も本名も、デュークは何ひとつ知らない。このジヴァートマという男も含めて、〈アデス〉の最高幹部たちには、あまりにも謎が多すぎた。
 デュークのいぶかしげな表情に気づいたのか、ジヴァートマは車外の子供たちからデュークに視線を引き戻してうなずいた。
「すべての人間が、きみのように自分の手で未来を切り開けるわけではない。……きみは選ばれた人間だよ、ミスター・デューク。弱者たちを淘汰し、それを証明してくれ」
「……くだらん」
 謎めいたジヴァートマの言葉の裏に不穏なものを感じながら、デュークは憤然と鼻を鳴らして瞑目した。