若きムエタイ・チャンプ――Joe Higashi

 タイ――特にその都市部では、朝早くから出勤する独身者や共働きの人口比率が高く、自宅ではいっさい料理を作らない家庭も少なくない。バンコクあたりに屋台が非常に目立つのは、そうしたお国柄のせいであった。
「――おい、ジョー!」
 夕食時、屋台街の喧騒の中で肩を掴まれ、ジョーはパッタイの皿を片手に振り返った。
「ああ、ホアか。どうしたよ、何かあったのか?」
「何かあったのかじゃないだろう、おまえ……」
 ジョーのトレーナーを務めるホア・ジャイは、一気に脱力したかのように肩を落とし、額の汗を拭いた。
「……ロードワークに行くっていってジムを出てから、いったい何時間たったと思ってるんだ?」
「1時間くらいじゃねえ?」
「3時間だ、3時間! 何か事故にでも巻き込まれたのかと思っただろうが! 人に心配かけるのもいい加減にしろ!」
「そう怒んなって。ほら、おまえも食えよ。俺が奢ってやっから」
「ったく……」
 ぶつぶつとぼやきながらも、ホアはジョーにうながされてきしむ椅子に腰を降ろした。
 ジョーとホアのつき合いは長い。ムエタイのチャンピオンとして君臨していたホアを、その王座から引きずり降ろしたのがほかならぬジョーだった。ホアはそれが原因で身を持ち崩し、一時はギース・ハワードの飼い犬にまで成り下がっていたが、KOFの舞台でふたたびジョーと出会い、彼との戦いを通して立ち直り、現在ではトレーナーとしてジョーをささえている。ホアがあれこれと口やかましいことをいうのも、ジョーのことを思えばこそだった。
 その時、混雑する屋台街の一角に、平和的な喧騒とは明らかに違うざわめきが走った。
「!」
 口からだらしなくパッタイをはみ出させたまま、ジョーは立ち上がった。人混みの向こうから、悲鳴にも似た子供たちの声や警察が吹き鳴らす警笛の音、荒々しい足音などが聞こえてくる。
「いったい何の騒ぎだ?」
「スリかかっぱらいだろ? 別に珍しくもないぜ。……ほら、見ろよ」
 ジョーたちの目の前を、警官に取り押さえられた子供たちが引き立てられていった。どの子供もまだ10歳になるかならないかといったところだろう。
 泣きながら引っ張られていく子供たちを見送るジョーに、ホアが低い声で淡々と続けた。
「……このへんの繁華街に来る外国人観光客を狙うってのが、ああいうガキどもなりの狙いらしい。そりゃあ日本や欧米の人間にしてみれば、花を買ってくださいって近づいてくるあどけない子供らが、いきなりカバンやポケットに手を突っ込んでサイフを奪ってくなんて想像もしないだろうからな。中にはパスポートまで盗まれちまうヤツもいるって話だぜ」
「……親は何してるんだ?」
「親がいる子供たちばかりじゃないぜ、ジョー」
 ホアのそのひと言に、いまさらながら、ジョーは自分が日本人だということを思い出させられた。ジョーはタイを第二の故郷とも思っているが、それでも、やはりジョーの価値観の基本となっているのは日本の常識であって、タイのそれではない。
「ああいうガキどもが盗みをはたらかなくっちゃ生きていけねえってのは、やっぱ世の中がどっか歯車がズレてんのかもな……」
「……やりきれねえぜ……」
 ごくんとパッタイを呑み込み、ジョーは眉間にしわを寄せた。

      ◆◇◆◇◆

 翌日、ジョーは赤いアロハにバミューダパンツ、それにビーチサンダルというラフな恰好で、まだうっすらと朝霧の立つ屋台街に繰り出していた。本人曰く、早朝のロードワークという話だが、このスタイルを見ればそれが口先だけだとすぐに判る。単にジョーは、朝の散歩に出てきているだけだった。
「さすがのジョーさまも、時差ボケにはかなわねェな。……ふあぁ」
 大あくびを連発しながら、サングラス越しに朝の屋台街を眺める。日中はもちろん、早朝でも深夜でも、ここにはいかにも東南アジア的な猥雑さがあって、ジョーはそれがとても好きだった。
 沿道の屋台では、カットされたパイナップルにグアバ、スイカなど、汁気たっぷりの南国の果物が甘い香りを放っている。まだ太陽は低い位置にあったが、起き抜けの身体は水分を欲しがっていた。
「何にすっかなー……」
 そうひとりごちながら、ジョーが長年愛用しているサイフをポケットから引っ張り出したその瞬間、横合いから不意に走ってきた小さな影がそのサイフをかっさらっていった。
「――――」
 屋台の親父はあっと驚きの声をあげたきり硬直してしまったが、同じく目を丸くしていたはずのジョーの反応はすばやかった。すぐに不敵な笑みを浮かべ、すばやく左手を伸ばして不埒な略奪者の後ろ襟を引っ掴む。
「あっ!?」
 次に驚きの声をあげたのは、その略奪者――まだ幼い子供だった。
「朝っぱらからくだらねえことしてんじゃねーぞ」
「ちょっ……放せ! 放せよ!」
「おとなしく観念しろよ、ぼうず」
「ぼうずじゃねえよ! オレは女だ!」
「何だ、おまえ女か? でもまあ、おまえが男だろうが女だろうが関係ねえ。自分が誰を相手に何をしでかしたか、きちんと自覚してもらわねえとな」
 そのセリフにジョーの顔を振り返った少女は、目を見開いて硬直した。
「じょっ、じょ、じょ……!」
 タイにムエタイのチャンピオンは数多くいるが、ジョーほど顔と名前が知れ渡っている選手もそうはいない。日本から単身タイに渡ってきて、またたく間に王座に登り詰めた無敵のチャンピオンであるだけでなく、今ではKOFをはじめとした異種格闘技戦でも無類の強さを誇るジョー・ヒガシは、タイの子供たちにとってはもっとも身近な、そしてあこがれのヒーローだった。
 おそらくこの少女は、相手がジョーだと気づかずに盗みをはたらいたのだろう。いまさらながらにとんでもないことをしたという後悔が襲ってきたのか、少女は言葉を失って涙ぐんでいる。
「――ま、別に警察に突き出したりはしねェから安心しろよ。ガキとはいえ、俺はレディにはやさしいんだ」
 そういって、ジョーは青ざめた少女ににんまりと笑いかけた。

      ◆◇◆◇◆

 チャオプラヤ川に面した、港にもほど近い人気のない倉庫街の一角で、ジョーはひとしきりシャドーを続けていた。
 鋭い左右のコンビネーション、右のローから左のミドル、さらにはハイキックへと変化するたくみな足技に、少女はまばたきをするのも忘れて見入っている。それでもジョーがくれたフルーツを食べる手だけは止まっていないのは、よほど腹が空いていたせいなのかもしれない。
 スニーカーの足元に、流れ落ちた汗がちょっとした水溜まりを作り上げた頃、ジョーはようやく動きを止めて大きく深呼吸した。
「――おい」
「えっ?」
「おまえ、名前は?」
「く、クアン!」
 パイナップルをごくんと呑み込み、少女が慌てて答える。
「おまえ、親は? 家族はどうしてる?」
「……いない」
「そうか」
 額の汗を大雑把にぬぐったジョーは、それ以上深くは聞かなかった。そもそも、ちゃんと親兄弟がいてごくふつうの家庭に育っているなら、他人のサイフを盗むようなあんな真似などする必要もない。
「いろいろと事情はあるんだろうが、もう二度とさっきみてえな真似はすんなよ? 相手が俺だったからまだいいようなものの、もしたちの悪いチンピラだったりしたら、今頃おまえ、警察に捕まってたほうがマシだって目に遭ってたかもしれねえんだからな」
「……うん」
 クアンは力なくうなずいた。
「しっかしおまえ、このジョーさまからサイフをひったくるとはなかなかいい動きしてるぜ。……ものは相談なんだが、おまえ、ムエタイやってみねえか?」
「え?」
「女子でも実力さえありゃあ世界を獲れる。トップランカーになりゃあ、日本やヨーロッパでも試合が組まれるんだぜ? ひったくりなんかやるくらいなら、自分の拳で夢掴んでみろよ」
「でも……ムエタイなんて、わたしにできるかな……?」
「できるかできないかじゃねえ、やるかやらねえかだ。……やらねえヤツはいつまでたっても変われねえ。それだけのこったろ?」
「――――」
「――まあ、誰もが俺サマみてェになれるわけじゃねえさ。何しろ俺は天才だからな。けど、その俺サマが、おまえにはちょいと才能があるかもしんねえって思ったんだ、騙されたと思ってやってみるのもいいんじゃねえか?」
「……うん」
「そんじゃまあ、とりあえずウチのジムに来いよ。最初はジムの掃除とか用具の手入ればっかりだろうけど、少なくともメシは3食食わせてやるし、そのうち俺がじきじきにコーチしてやっから。……光栄に思えよ? おまえはジョー・ヒガシさまの弟子第1号なんだからな」
「うん!」
 今度は元気よくうなずいたクアンの顔を見つめ、ジョーは楽しげに笑った。

      ◆◇◆◇◆

 ジョーはこの国にやってきて、そしてこの国で夢を掴んだ。
 そして今、ひとりでも多くのこの国の子供たちに、今度は自分が夢をあたえようとしている。それが、自分にできるこの国への自分なりの恩返しのつもりだった。

 たとえKOFの常連となっても、自分はやはりムエタイ出身の人間なのだと、ジョーはそう思っている。

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