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〈2〉

 1500年という時の流れとキリスト教徒たちの手によって破壊され、すでにそこには城と呼べるようなものは何ひとつ残っていない。かつては城壁の一部に使われていたのか、ひとかかえもありそうな苔むした石材が、わずかに点々と転がっているだけだった。
 陰鬱に広がる鈍色の空の下、ラングドックの乾いた風が、白茶けた枯れ野を波立たせて起伏に富んだ丘を駆け上がってくる。
 この丘の上の城砦跡から見晴るかす面白みのない風景は、見る者を不安にさせずにはおかない寂寥感にいろどられていたが、薄いアッシュブロンドの髪の少女の横顔からは、そうした感情を読み取ることはできなかった。
 ゴシックテイストの黒いドレスが、少女の肌の白さを際立たせている。
 肌はあくまで白く、だが、唇は血の珠のように艶やかに赤い。ビスクドールを思わせる端正なその美貌には、年に似合わない色香のようなものさえきざしていた。
 黒い薔薇のコサージュで飾られた髪を押さえ、少女は風になびく草の海を見つめていた。
 もうかれこれ小一時間にはなるだろうか。少女のほかにあたりに人影はなく、彼女ひとりがそこに立ち尽くしている。
「————」
 その時、少女の瞳が動いた。
「——“そののち私の霊は殺されて天に昇ってゆき、そこで神の聖なる子らを見た”」
 落ち着きのある男の声が、風の音を押しのけて朗々と、ゆっくりと振り向いた少女の耳へと届いた。
 その一節を受け、少女の朱唇が花開いた。
「……“彼らは炎の上を歩いており、その衣は白く、その顔は雪のように輝いていた”」
 感情の揺らぎを排して淡々と呟く少女のまなざしの先に——いつ、どこからそこへ来たのか——眼鏡をかけた背の高い牧師が立っていた。
 牧師——なのだろう、おそらく。
 聖書を小脇にかかえた牧師をじっと見つめ、少女は軽く肩をすくめた。
「……『エノク書』なんか読み飽きたし」
「ほう」
 牧師は軽く拍手をして眼鏡をはずした。
「——お名前をお聞きしてもよろしいでしょうか、お嬢さん?」
「ニノン・ベアール」
「ベアールというと——」
 どこか笑みを含んだような牧師の視線が、荒涼とした大地を見渡す。
「違うし」
 牧師の言葉を先読みしたのか、少女ニノンはにべもなく否定した。
「別にわたしはこの土地の人間じゃないし。……おばあさまのおばあさまの、そのまたおばあさまのおばあさまが、ちょっとここに住んでたことがあるだけだし」
「なるほど……では、数百年ぶりの里帰りというところですかな?」
「それも違うわ。身内がマルセイユで療養しているから、見舞いのついでに寄ってみただけだし」
「マルセイユですか……あそこはいいところです。明るく、暖かく、人々も陽気で——そう、こことは正反対の土地ですね」
 牧師の肩を飾る青いケープが、その足元から巻き起こった風になびいた。
「……古来、ここは数多くの惨劇の舞台となってきました。古くはフランク王国とブルグント王国、西ゴート王国が激突し、その後も十字軍の名を借りた思想弾圧によって多くの血が流されました。ペストが猛威を振るっていた時代には、人里から離れたこの場所で人々の遺体が焼かれたそうです。そして、そのあとにやってきたのは魔女狩りの狂乱——いわばここには、人間という救いがたい動物の愚かなる歴史の残滓が染みついているのです」
「みたいね」
 城壁と石塁の残骸しか残されていないこの廃墟に何を見ているのか、ニノンは冷ややかな視線であたりを見回した。
「……いい土地だわ」
「はっはっは——」
「何がおかしいの?」
「いや、これは失礼。……ですが、あなたの感受性はとてもユニークだ。非常に興味深い」
「そういうあなたもかなりユニークだし」
「そうですか?」
「……ええ」
 ニノンの瞳は牧師の足元を一瞬だけ捉え、すぐにまた底冷えのするような荒れ野へと向けられた。
「——先ほどから何ごとか考え込んでいらっしゃるようですが、もしよろしければ詳しいお話をお聞かせくださいませんか?」
「あなた、聴罪師か告解師なの?」
「そういうわけではありませんが……何か神に懺悔したいことがおありで?」
「そんなものないし」
「そうですか」
 牧師はそれきり口を閉ざした。だが、その場から立ち去るわけでもなく、風に吹かれて目を細めている。
 おたがい無言のまま、強い風と弱い風が幾度か交互に吹き寄せてきて——。
「……誰よりも努力をかさねて誰よりも先を進む者がいて、その少し後ろを、ろくな努力もせずに追いかけてくる者がいて——どちらが最後に勝つのかしら?」
 ややあって、ニノンは独り言のように呟いた。
「何です? 駆けっこのお話ですか?」
「そんな子供っぽい話じゃないし」
「さて……何をなぞらえてそうおっしゃっているのかは判りませんが——」
 牧師は聖書を胸に抱いて笑った。
「努力した者がかならずしも最終的な勝利者たりえない残酷な現実が、この世界にはままあります。天があたえたもうた才能というものは、しばしば真摯な努力家たちをひどく打ちのめすでしょう。凡人がどんなに真摯な努力をかさねようと、神に愛された天才の前ではすべてが無意味になることもある」
「神に愛された天才? あのお姉ちゃんが?」
 誰にいうでもなく、ニノンは眉をひそめて吐き捨てた。

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