〈3〉
「小さい頃から、わたしがお姉ちゃんにかなわないものなんて何ひとつなかったし」
雲の流れが速い。重くのしかかるようだった灰色の空に、わずかずつ、夕暮れの朱色が混じり始めている。
「……ラテン語をマスターするのもヘブライ語をマスターするのもわたしのほうが早かったし、身体を動かすことだってわたしのほうが上だった。どんなことでもわたしのほうが呑み込みが早くて、おねえちゃんはとにかく物覚えが悪かったし」
「ほう……それがあなたの憂いの種というわけですか」
牧師の言葉に、ニノンは目を細めた。
「世間一般の兄弟姉妹とは逆のようですが……つまりあなたは、自分がいつか姉に抜き去られるのではないかと恐れているのですね?」
「……馬鹿馬鹿しい」
ニノンは冷たく笑った。
「お姉ちゃんとわたしの立場が逆転するなんて、そんなこと永遠にありえないし」
「ですが、現にあなたはその可能性を考えているではありませんか」
「————」
ニノンは牧師を振り返った。
さっきよりも色濃くなった少女の影が、牧師の足元まで伸びている。
ニノンを見つめる牧師の視線が、不思議な色にきらめいているようだった。
「自分のほうがすべてにおいてすぐれているといいながら、それでもなおあなたは自分の優位を信じきれずにいる。まるで見当はずれな、無駄な努力ばかり続けているように見える姉が、あふれる才能に加えてたゆまぬ研鑽を積んでいるはずの自分をいつか追い越していくのではないか——さしたる根拠もないそんな漠然とした不安を、あなたはつねに感じているのではありませんか?」
「……だったらどうなの?」
ニノンはふたたび牧師の足元を見つめ、聞き返した。
「別にどうもしません」
牧師は大仰に肩をすくめて微笑んだ。
だが、夕風にケープが大きくはためいても、牧師の影は動かなかった。
それ以前に——牧師に影などなかった。
少女と相対していた牧師は、最初から影を持っていなかった。
「……ほんとにユニークな牧師だし」
影のない男を前にしても、ニノンの表情に恐れの色はない。むしろその唇は、ほの暗い喜びに小さくほころんでさえいた。
「我が主は——」
そういいかけ、牧師はすぐに首を振った。
「とは申しましても、天におわす人間たちの神のことではなく、この大地に眠る我々の主という意味ですが——とまれ、我が主は、愚かしい人間どもの変わりゆくさまを、今しばらく見守るとおおせになられたのです」
「人間の変わりゆくさまを見守る? ずいぶんと偉そうなのね」
「万物の霊長を僭称する人類ほどではありませんよ」
胸に手を当て、牧師は慇懃に身を折った。
「——我々はただ我が主の意志にしたがうだけです。ですから私も、ときどきこうして、あらたな人のありようを観察するために現世に現れもするのですよ」
「観察だなんてますます偉そうだし」
「よくいわれます」
居住まいを正した牧師の周囲に、白い霧のような風が渦を巻き始めた。小石を巻き上げ、次第に勢いを増していくその風は、だが、不思議とニノンの白い肌を傷つけることはない。
目に見えない壁のようなものがニノンの前にそそり立ち、吹き荒ぶ風から彼女を守っているかのようだった。
「……楽しいひと時でしたよ、マドモワゼル」
「亡霊風情に気に入られても嬉しくなんかないし。……さっさと天に召されればいいし」
冷淡にいい放ったニノンは、口の中でヘブライ語の呪文を唱え、目の前の空間を軽く右手で薙ぎ払った。
その刹那、何もないところに生じた激しい風が牧師を包み込む小さな嵐と激突し、一瞬ののちにはすべてが消え去っていた。