オリジナルサイドストーリー CLOSE
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〈1〉

「——あァ!?」
 口の中に突っ込んでいた歯ブラシを吐き出し、シェン・ウーは眉をひそめた。
 目覚ましい速度で近代化が進む上海の片隅に残る、1920年代に建てられた古ぼけた里弄(マンション)は、その存在自体がいまや奇跡であった。造りそのものは頑丈だったから、時の重みに倒壊せずにいること自体はさして不思議ではなかったが、どういうめぐり合わせなのか、貪欲な不動産業者に買い上げられて再開発の波に呑み込まれることもなく、21世紀を迎えた今もかろうじて現役を続けている。
 もっとも、ここが地上げの憂き目に遭わずにすんでいる理由の何割かは、この男が住んでいるから——なのかもしれない。
 大雑把に口をゆすぎ、シェンはスピーカーの向こうの年下の友人を怒鳴りつけた。
「ちょっと待て! おまえ今何つった!?」
『だからさァ、近いうちに、シェンのところに堕瓏の居場所を聞きに誰かが尋ねてくるかも、っていったんだよ』
「どういう意味だ、おい? 堕瓏の居場所ならおまえだって知ってるだろ!? あいつは今——」
『だって、勝手に教えたら堕瓏に恨まれるかもしれないじゃない? かといって、その子も何だかワケアリだったみたいだし、知ってるけど教えないなんていえなくってサ。だから、上海にいるシェン・ウーって男なら知ってるかもって教えてあげたんだ』
「ふざけんな! 勝手に人の名前出してんじゃねえよ!」
『いまさらそんなこといわれても困るんだけどさ』
 聞こえてくる声にはまった悪びれたところが感じられない。
『——とにかくそういうコトだから、あとはよろしくネ』
「ちょっと待て、おいっ!?」
 一方的な展開にシェンが噛みついた時には、すでに電話は切れていた。こちらから何度かかけ直してみたが、人を食ったような留守電のメッセージが流れるだけで、本人が電話口に出ることはなかった。
「あのガキ……!」
 留守電に思いつくかぎりの悪態を吹き込んでから携帯電話をポケットにねじ込み、シェンは素肌の上にシャツをはおって部屋を出た。
「ずいぶんとご機嫌斜めの様子じゃないか。何かあったのかい?」
 同じ階に住む老婆が、乱暴にドアを閉めて出てきたシェンを見て、顔中をシワだらけにして笑っている。
 いつ抜けるか判らない、大きな音を立ててきしむ階段の途中に腰をかけ、膝の上に乗せた猫を相手にいつもおしゃべりをしているこの老婆の名前を、シェンは知らない。老婆のほうもシェンのことはろくに知らないだろう。
 そもそも人の恨みを買いやすいシェンは、ひとつところに長く住むということをせず、あちこちを転々としている。このマンションも、シェンが上海中にいくつか用意してあるねぐらのひとつで、別にここに定住しているわけではない。ゆうべはここで寝たが、今夜は蘇州河沿いの倉庫街の軒先で夜を明かすかも知れず、どこかの市場で夜通し酒を飲んで朝を待つということもありえる。
 端的にいえば、住所不定なのである。
 だから、そうしたねぐらのひとつに、少しばかり変わり者の隣人がいたとしても、シェンはあまり気にしないし、興味も持たない。
 黒い革の手袋をきつくはめ、シェンは唇をゆがめた。
「余計なお世話だ。いいからばーさんはそこでノラの相手でもしてな」
 老婆は溜息をついただけで何もいわなかったが、代わりに、老婆の膝の上の猫がタイミングよく鳴いた。

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