〈4〉
笑龍が口を開くたび、あるいは身動きするたびに、めまいを誘うような甘い香りが広がる。
その香りに酔いそうになって、シェンは軽く首を振って倉庫を出た。
レンガ造りの古い倉庫が建ち並ぶこの界隈とくらべて、蘇州河をはさんだ対岸には、上海の急速な発展を体現する真新しいビルがそびえていた。川面にその明かりが無数ににじみ、蒸すようななまあたたかい風が吹き寄せてくる。
前髪をかき上げ、シェンは大きく深呼吸した。
「——香港であなたのお名前をお聞きしました」
シェンに続いて外へ出てきた笑龍がいった。
「わたしの尋ね人を捜すには、あなたにお聞きするのがいいのではないかと……」
「ソバカスの小僧がそういったのか?」
「あなたのお知り合いだとおっしゃっておりました」
「知り合いってのは間違いじゃあねえけどな」
かといって、面倒ごとをこころよく肩代わりしてやるほど仲がいいわけでもない。
しかし、それをここでこの女に説明したところで時間の無駄だろう。シェンは腰のチェーンを鳴らして笑龍を振り返った。
「——あの連中はおまえが?」
「差し出がましいことをいたしました」
「まったくだ」
「わたしはただ、あなたのことを知っている彼らから、あなたのお住まいを聞こうと思っただけなのですが——」
「そんな道理の通じる相手じゃねえって判ンねぇか、見ただけでよ?」
「申し訳ありません。世間知らずなものですから……」
皮肉でも何でもなく、笑龍は本当に申し訳なさそうに頭を下げた。
彼女が世間知らずだというのは事実だろう。笑龍は、自分が飛賊——中国の奥地に住むという伝説の暗殺者集団のひとりだと名乗った。その隠れ里から、つい最近になって、初めて世の中に出てきたのだという。
「飛賊……か」
川沿いの道をいろどる木立に踏み入り、太い木の幹に寄りかかったシェンは、唇をゆがめて笑龍の言葉を反芻した。
と同時に、視界の隅でさりげなく笑龍を観察してもいる。
はかなげな女だと思った第一印象は今見ても変わらなかった。上背はそこそこあるが、とにかく細すぎる。少なくとも、闘いに向いた体格の持ち主ではない。
だが、倉庫の中で倒れている男たちをやったのは、間違いなくこの笑龍だった。それも、かなり手加減をしている。仮にも飛賊を名乗る者が本気で闘えば、チンピラの5人や10人、まばたきひとつのうちに死体に変わっていたとしてもおかしくはないのである。
シェンの視線に気づいたのか、笑龍ははにかんだようにうつむいた。
「シェンさまは……飛賊というものをご存じですか?」
「ま、名前くらいはな。知る人ぞ知る……ってヤツだろ?」
「はい」
「その飛賊の……誰だっけ?」
「龍、もしくは堕瓏というおかたを捜しているのです」
「事情は知らねェが、ま、ご苦労なこった」
「ご存じではございませんか?」
笑龍ははっとしたように顔を上げた。
「どうしてオレが知ってるって思うんだ?」
「そうお聞きしています。その手のことなら上海のシェン・ウーさまに聞くのがいいと」
「かつがれたんだろ」
シェンはにべもなくいい放った。
「——暗殺者のわりには人を疑うってことを知らねえんだな、おまえ。あの小僧がおまえを騙したとは考えねえのか?」
「あのかたがわたしを騙す理由がありません」
「あるさ。あいつは性格の悪い最低最悪の嘘つきだ。人の不幸を見てニヤニヤ笑っていられる根性のねじ曲がったとびきりの悪ガキなんだよ。……おまえは騙されたんだ」
さっきの電話の主を、ここぞとばかりにこき下ろす。悪意のあるシェンのその言葉に、笑龍は哀しげに瞳を潤ませた。
「では、あなたもご存じない……?」
「知らねぇな」
笑龍から目を逸らし、シェンは鼻を鳴らした。
「——そういうことを知りたきゃ、それこそキング・オブ・ファイターズにでも出たほうがいいんじゃねえか? あそこにゃ変わった連中が世界中から集まってくるからな。本人が参戦してるかどうかはともかく、手がかりくらいは掴めるかもしれねえ。蛇の道は蛇っていうぜ。あのソバカスだってそういってたんじゃねえのか?」
「本当にご存じないので……?」
シェンのセリフを頭から無視するように、笑龍が繰り返した。
「くどいな。知らねえといったろう?」
「…………」
笑龍は口を閉ざし、瞳を閉じた。
蘇州河の水面を渡ってきた風が、木々の枝葉を揺らす。ざわざわとさざめくその音に聞き入っているのか、それとも涙がこぼれるのをこらえているのか——笑龍は目を閉じたまま頭上をしばらく振り仰いでいたが、束の間いきおいを増していただけの風がやむと、長い袖で顔を隠すようにしてシェンに一礼した。
「お手数をおかけいたしました」
「……これからどうするつもりだ?」
「捜し続けるだけです」
「そうかい。……ま、達者でやんな」
笑龍が自分に背を向けて歩き出した気配を察し、シェンは川向こうのネオンを眺めながらひらひらと手を振った。
「——もし」
「あン?」
「もし三太子と——いえ、堕瓏というかたとお会いすることが、もし万一おありでしたら……笑龍は元気でいるとお伝えください。そして、どうかご自愛くださいますようにと——」
「ああ、判った。もしそいつと会ったら伝えとくよ」
「それでは失礼いたします」
最後まで控えめな——まるで日陰に咲く花のような——細い声が遠のき、それとともに、シェンにまとわりついていた甘い香りも風に乗っていずこかへ散った。