〈5〉
ポケットに手を突っ込み、ぬるい夜気の中を泳ぐように歩いていく。
風に吹かれて運河沿いの暗い道を歩いていると、切れかかってちかちかとまたたく街灯の下に、季節感を無視した黒いコート姿の美男子が立っていた。
「よう」
シェンは唇を吊り上げ、おざなりに挨拶した。
「やっぱどっかで見てたんだな、おまえ」
「ああ」
小さくうなずいた堕瓏の横顔から彼の感情を窺い知ることは難しい。シェンは感情が嫌でも顔に出るタイプの男だったが、逆に堕瓏は、自分の感情をほぼ完璧に抑え込むことのできる男だった。
「どうかご自愛ください、だとさ。……あの子、おまえの知り合いだったんだろ?」
「ああ」
「あの子にはおまえのこと黙ってたけどよ、ホントにアレでよかったのか?」
「ああ」
「ああばっかりだな、おまえ」
寡黙な知人を見て苦笑し、シェンは行きつけの酒家へ向かった。
その店は、運河の上にちょっとした回廊を張り出させた、二階建ての古風な数奇屋だった。欄干のところから突き出された竹竿の先で、赤い紙張りの灯籠が揺れている。
シェンと堕瓏が窓際の席に陣取ると、無口な店主のじいさんが、揚げ豆腐の辛子煮を盛った小鉢を運んできた。客はほかにも四、五人ほどいたが、酒の席であえてシェンに声をかけようとする者はいない。
「ここは水餃子がうまいんだよ。オレは上海一だと思ってる」
川海老のてんぷらと水餃子、それに紹興酒を小さな甕でひとつ注文し、シェンはあらためて堕瓏に告げた。
「——けどよ、オレがおまえと知り合いだってことは、たぶんバレてたと思うぜ。ひょっとしたら、おまえがこの街にいることもお見通しだったのかもな」
「そうか……」
「しかしまあ、聞き分けがよくて助かったぜ」
「笑龍も、まさか上海のシェン・ウーを相手に力ずくで聞き出すわけにはいくまい」
「別にオレはそれでもよかったんだがな。……なかなか面白そうな相手じゃねえか」
店主の老人が運んできた水餃子に箸を伸ばし、上目遣いに堕瓏を見やる。だが、整いすぎともいえる表情を微塵も崩すことなく、堕瓏は静かに首を振った。
「笑龍では……おまえには勝てまい」
「だったら、もしあの子とオレが本気でやり合ってたら、おまえは無視できずに止めに入ってたか?」
堕瓏はやはりまったく表情を変えなかったが、シェンの問いに答えようともしなかった。
「……ま、幸か不幸か、あの子はそういうやり方でおまえを引きずり出すようなずるがしこさを持ってなかったようだがな」
「いろいろと気を遣わせてしまったな。すまない」
「気にすんなよ」
誰にでも事情というものはあるし、その重さは当人にしか判らない。
堕瓏には堕瓏の事情があってここにいるのだろうし、事情があって笑龍と顔を合わせるのを拒んだのだろう。笑龍にも笑龍なりの事情があり、だから堕瓏を捜し続けている。
だが、そのへんのことを深く問いただすつもりはシェンにはない。事情を聞いたところで何かしてやれるわけではないのは判っている。なのに興味本位でそれを聞こうとするのはあまりに野次馬めいている。
それにシェンは、もしいつか自分が堕瓏と闘う時が来るとしたら、彼の事情を知らないままでいたほうが、余計なことを考えずに闘いを楽しむことができるだろうと思った。
堕瓏は、シェンのお眼鏡にかなう数少ない人間のひとりなのである。
酢醤油に細かく刻んだにんにくを放り込み、そこに熱い水餃子を軽くひたして、汗をかきながら頬張る。口の中を火傷しそうなほど熱いのを、ふうふういいながら食べるのがうまいのである。
水餃子をもうひと碗追加で注文して、シェンは堕瓏にいった。
「——そもそもよ、ことの起こりはアッシュだろ? あの野郎、おまえが上海にいることぐらい見当がついてただろうに、それをスッとぼけてあの子をオレに丸投げしてきやがったんだぜ? 正直にいったらおまえに恨まれるからとかいいやがってよ」
「アッシュらしいといえばらしいが」
ようやく堕瓏が口もとをほころばせた。
それを見てにやりと笑ったシェンは、テーブルに置かれた紹興酒の封を切った。
「きょうはオレが奢ってやるよ。遠慮しねェで食え。な」
「ああ」
あくまで優雅な箸使いで、堕瓏は水餃子を口に運んでいる。その目の前に置いた安っぽいコップに紹興酒をなみなみとつぎ、シェンは笑った。
「うまいだろ?」
「まあまあだな」
「おいおい、こんな酒家の料理じゃ納得できねえってか?」
「そういうわけではない。たぶん、上海のどこのホテルのものよりうまいだろうな」
「だったら素直にうまいっていえよ」
「まずいとはいっていない。上海一なのは認めよう。……だが」
「だが? だけど何だよ?」
「……餓鬼の頃に、もっとうまい水餃子を食べたことがある」
「どこでだよ? そこまでいうんなら今度そこへ連れてけよ」
「いや……もう食べられないだろう。あの餃子を作れる人間が、もういないからな」
「なんだよ、期待持たせやがって——」
大袈裟に舌打ちし、シェンは紹興酒をあおった。餃子のせいで軽く火傷した舌先に、30年分のまろやかさを帯びたアルコールがかすかにしみる。
窓から見える運河の上を、上海の近代化に逆行するような、昔ながらの小さな舟がくだっていく。これから川に出て何か獲るのか、それとも荷でも運んでいる途中なのかは判らないが、そうした暮らしをしている人間がまだこの街にいるのも現実だった。
この街では、未来と過去が同居を続けている。未来を見据えて生きていこうとする者もいれば、過去に囚われたまま生きることを余儀なくされている者もいる。
自分はそのどちらでもないと、シェンはそう思っている。振り返るほどの過去もなければ将来のビジョンもない。大切なのは今、目の前にある現実だけだった。
「——ぁちっ」
追加で出てきた水餃子を懲りずにまた熱いまま口の中に放り込んだシェンは、堕瓏のいう水餃子を作れる人間というのはあの笑龍のことではないのかと、漠然とそう思った。