夜のガスパール
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〈3〉

 夜風に吹かれながら居眠りをしていたナガセは、耳もとで鳴り始めたかすかなコールサインに目を醒ました。すぐさま身体を起こし、星のピアスをそっとつまむ。
「ふぁ〜い……こちらナガセ〜。何かあったの〜?」
『ある意味、きみの期待通りの展開になりつつあるのかもしれないな』
“彼”の声に、眠たげだったナガセの瞳がぱっちりと開いた。
『——ミスター・デュークからの連絡が途絶えた』
「ひょっとしてしくじったってこと?」
 屋根の上に身を起こして聞き返したナガセの声には、隠しようもない喜びの色がにじんでいた。
『そう嬉しげにされても困るな。詳細はまだ不明だが、何らかのトラブルが生じたのは間違いない。人気のない場所で始末できればベストだったのだが——どうやら、きみの手にゆだねざるをえなくなってしまったようだよ、“タイプN”』
「こんなことになるなら最初からわたしに任せとけばよかったんだよ。そうだろ?」
『それは単なる結果論だ。今ここできみと不毛な論議を戦わせるつもりはない。——彼女の父親の別荘がその近くにある。彼女はおそらくきょうはそこで夜を明かすつもりだろう』
「夜明かし? あしたの朝日なんて拝ませるつもりはないよ」
 傲慢にさえ聞こえる声だけを残し、オペラ座の屋根の上からナガセのあざやかなシルエットが消え去った。
 数秒後、人気の減ったオペラ座近くの路上に陽炎のように現れたナガセは、サングラスのレンズ面にこの地方の衛星地図を表示させて走り出した。

 ナガセが知るところでは、彼女に暗殺命令が下されたターゲットは、ドイツの音楽界ではかなり名の知られた才媛で、古今東西の数々の楽器をたくみに弾きこなし、その美声で多くの人々を魅了することのできる美女だった。
 名を、ルイーゼ・マイリンクという。
 とはいえ、彼女はまだ一介の大学院生にすぎず、それ以前に、格闘技などというものとははるかに縁遠い女性であった。そんなルイーゼが、なぜキング・オブ・ファイターズに参戦してきたのか——なぜ参戦できたのか、また、なぜ“彼”から命を狙われなければならないのか、それはナガセにも判らない。
 しかしナガセは、それを知りたいとは思わなかった。
 ナガセはただ、あたえられた任務を完璧にこなし、自分の“スペック”の高さを証明できればそれでよかった。
 自分がひどく飽きっぽい性格だという自覚はナガセにもあったが、少なくとも、今はそれで満足だった。
「————」
 夜の闇にまぎれ、鬱蒼としげる林を明かりもなしに駆け抜けてきたナガセは、行く手に見えるなだらかな丘の上に瀟洒な造りの屋敷があるのを認めた。代々の資産家といわれるマイリンク家の別荘にしては、さほど大きいものではないが、趣味は悪くない。
 サングラスのフレームに手を添え、ナガセは眉をひそめた。
「はん……? まさかあの女、もう寝ちゃったわけ?」
 センサー越しに見る屋敷には明かりがともっておらず、中で誰かが起きている気配はない。あたりの田園地帯と同じく、ひっそりと静まり返っている。
「もし誰かいるとすれば、あの女と……それに運転手役の執事くらいか。まあ、いてもいなくても数のうちに入らないけど」
 近くの町や民家から適度に離れている立地条件は、今夜のナガセの任務にはうってつけだった。こっそり屋敷に忍び込み、人知れずターゲットを始末して、それからあたりに火を放つ。町から消防隊が駆けつけてくる頃には、暗殺の証拠になりそうなものは——死体も含めて——すべて灰に変わっていることだろう。
 背中に背負ったニントーブレードの柄に触れ、その感触を確かめたナガセは、背の高い木立の梢から梢へと猿のような身軽さで飛び移り、ふたたび移動を開始した。
「——っと!」
 その時、真っ暗だった屋敷のほうから不意に明るい光が射してきた。
 ナガセは太い枝の上に降り立ち、葉陰に身をひそめて屋敷の様子を窺った。
 開け放たれたままの門を抜けて、あのマイバッハが黒光りする巨体を現した。まもなく日付も変わろうかというこの時刻に、いったいどこへ向かうつもりなのか。
「……へえ」
 ナガセの目の前の細い坂道を下って通りすぎていったマイバッハには、ターゲットの美女しか乗っていなかった。
「——あんなデカいクルマを自分で運転して、まさか町に繰り出して夜遊びなんかするつもりじゃないよねえ?」
 マイバッハを見送ったナガセは、その場でしばらく逡巡した。
 このまま追いすがって、クルマに乗っているところを襲うか——。ナガセの身体能力ならそれも不可能ではないが、結局、ここは彼女の好奇心が競り勝った。
 あの美女がどこへ向かうつもりなのか、確かめてから始末しても遅くはない。

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