〈4〉
真夜中——。
すでに打ち捨てられ、無人となって久しいはずのうらさびれた教会から、古色蒼然たるオルガンの音色が聞こえてくる。
それが何という曲なのか、ナガセには判らなかった。
かろうじて判るのは、それがとても難しい曲らしいということと、それを弾いているのがすばらしい才能の持ち主らしいということくらいだった。
教会の前に停まっていたマイバッハのエンジンはすっかり冷えている。マイバッハの車内を覗き込んでいたナガセは、淡い光のもれ出る教会の扉を見やって唇を吊り上げた。
「近所迷惑だからこんなトコまで来てピアノの練習?……んなわけないか」
かぶりを振り、ナガセは教会の石段を上がった。
あちこち虫食いだらけの扉を両手で引き開けると、細くもれていたオルガンの音が一気にあふれ出てきた。
薄暗いホールには木製のベンチが乱雑に並び、揺らめく蝋燭の明かりによって不規則な影を床の上に投げかけている。そのすさんだ信仰の場の中で、一番奥の祭壇の向こうに置かれたオルガンの周りだけが、華やかに色づいているように見えた。
ナガセは後ろ手に扉を閉め、ベンチのほこりを払って腰を降ろした。
壊れかけのオルガンで、譜面もなしに難度の高い曲を見事に弾きこなしているのは、夜空に降る星のような銀髪も美しい、まだ若い女だった。
「ルイーゼ・マイリンク」
10分にもなんなんとする曲を弾き終え、女の指先がオルガンの鍵盤の上でぴたりと止まった時、ナガセがようやく口を開いた。
「——だよね、おまえ?」
「…………」
演奏後の余韻にひたっていたのか、しばらくうつむいていた女が、ゆっくりと立ち上がってナガセを振り返った。
「そういうあなたは?」
「質問に質問で返すなよ。ガキじゃあるまいし」
サングラスを押し上げ、ついでにフレームに指で触れる。レンズ面に録画の開始を知らせるアイコンが点滅したのを確認し、ナガセは続けた。
「——おまえ、なんだってこんなところでピアノの練習してんのさ?」
「これはピアノじゃないわ。オルガンよ」
「どっちでもいいよ、そんなもん」
「……かもしれないわね」
そっけないナガセの反応に肩をすくめ、女は——ルイーゼ・マイリンクは、青いルージュにいろどられた唇を笑みにほころばせた。
「あの別荘には、父の蔵書の一部が置いてあるの。父にとってはとても大事なものだし、もしかしたらわたしにとっても、父の形見になるかもしれないものだわ。だから、万が一のことがあったらいけないと思って」
万が一——万が一、何が起こるというのか。
ナガセを見返すルイーゼの視線はまるで旧来の友に向けるそれのようで、そのためにかえって不自然に感じられた。
「形見になるかもーって、ずいぶんと他人ごとっぽくない?」
「それがわたしの悩みのひとつでもあるのよ」
鍵盤の蓋を閉じ、そこに軽く寄りかかって、ルイーゼはゆっくりと首を振った。
「自分の実の父親のことなのに、どうしても客観的にしか見られない。薄情となじられても否定できないわ」
「それって要するに、人間としてどっかおかしいってことじゃないの?」
「……そうかもしれないわね」
ひどく失礼なナガセの言葉を、ルイーゼは決して否定しようとはしなかった。
「けど、そういうあなたもただの人間じゃなさそうだけど?」
「自分がフツーかどうかなんてどうでもいいよ。わたしはただ、おまえを始末するためにここへ来ただけなんだから」
「オペラ座を出た時からわたしをつけていたのはあなた?——いえ、違うわね」
「へー、気づいてたんだ」
だとすれば、ルイーゼが深夜にひとりで別荘を離れてここまで来た理由が、ナガセにもなんとなく想像がつく。どんな“特技”を持っているのか知らないが、どうやらルイーゼは、ナガセを迎え撃つつもりでここへとやってきたらしい。
オルガンのそばを離れ、ルイーゼはナガセの真正面に立った。
「あなたたちの目的は何なの?」
「はん?」
「わたしのお父さまを——世界中の高名な科学者たちを次々に誘拐しているのは、あなたたちなんじゃないの?」
「あなたたちあなたたちってさあ……おまえ、誰のこといってんの?」
ナガセは両手を背中に回し、ニントーブレードのセーフティをはずした。
「——確かにおまえ、よく判んないけど、いろいろと余計なことに首を突っ込みすぎてるみたいだね。それじゃ命狙われてもしょうがないよ」
「ということは——そうなのね?」
「ノーコメント。……っていうかさ、さっきいったじゃん。わたしはおまえを始末するためにここへ来ただけだってさ」
「そう……」
にべもないナガセの言葉に、ルイーゼは大仰に嘆息した。彼女が弱々しく首を振るのに合わせて銀色の長い髪が揺れ、さらりさらりと砂の流れるような音がした。
「やはり真実に近づくためには、闘って勝ち続けるしかないようね。……あまり気は進まないけれど」
「へえ、ヤル気じゃん」
鼻の頭を指でこすり、ナガセは床を蹴った。
「——じゃあ、おまえの実力ってのを見せてみなよ! あのトーナメントに乱入できるくらいの実力をさ!」
スキップするよりも軽い、玄関から踏み出す最初の1歩のような何気ない動きから、天井に届くほどの大きな跳躍を見せ、ナガセはルイーゼに襲いかかった。
「はっ!」
剥き出しの梁を蹴り、ナガセは鋭角に急降下した。
ソールの厚いブーツが、わずかに身を引いたルイーゼの鼻先をかすめて床板をたわませる。
そこにルイーゼの蹴りが飛んできたが、それはあからさまに素人丸出しの、ナガセから見れば蹴りともいえない蹴りだった。
「おまえ——素人じゃん!?」
ローカットブーツの爪先を難なくかわしたナガセは、背中からニントーブレードを逆手に引き抜き、そのまま抜き打ちで斬りつけた。体勢の崩れた素人には絶対にかわせない、神速の一撃。
だが、ルイーゼはそれをかわしてみせた。
闘うために造られたはずの、“タイプN”——ナガセの斬撃を、大きく身体をのけぞらせてかわしていた。
偶然か——。
最初はそう思った。
ルイーゼの身のこなしはどう見ても格闘家のそれではなく、特別な戦闘訓練を受けた人間のものでもなかった。“プロ”がナガセを油断させるために素人臭い動きを見せているというのでもない。
ルイーゼの動きは本当に素人のそれだった。
だからナガセは、素人が苦しまぎれに身体をひねったおかげで、喉もとに食い込むはずだった刃がほんの数センチ届かなかっただけではないのか——そう思おうとした。
しかし、すぐにナガセはその違和感に気づいた。
「こいつ!?」
格闘技をかじったこともなさそうな素人臭さとは裏腹に、途切れることのないナガセの攻撃のことごとくをかわし続けるルイーゼの目線は、しっかりとナガセの動きを追いかけている。 身のこなしは素人だが、動体視力は玄人——むしろそれ以上というアンバランスさに、ナガセは眉をひそめた。
しかも、スピードそのものは決して遅くない。
独特のテンポで四肢をひらめかせて立ち回るルイーゼの動きは、武闘ではなくまさに舞踏のようで、そこにはある種の美しささえ存在していた。
「何モンだよ、おまえ!」
ナガセは腕部プロテクター内からポップアップしてきたシューティングスターを指先にはさみ、ルイーゼの急所を狙って投げつけた。
「——よして」
ルイーゼが両手で胸の前に大きな円を描くと、そこに鏡を思わせる光が凝縮し、特殊合金製の手裏剣を弾き飛ばした。
「! おまえ、今ナニやったのさ!?」
コンクリートの壁面にもやすやすと突き立つシューティングスターを、この女はいかにして跳ね返したのか。驚きに目を丸くしたナガセの問いに対して返ってきたのは、ルイーゼの長い脚だった。
ふわりとしたジャンプから、重力と慣性を無視してナガセとの間合いを詰めたルイーゼは、独楽のように身体を回転させて蹴りを放った。
「つっ——」
横殴りの一撃をガードしたナガセの身体が大きく崩れる。さらにその頭上へ、ルイーゼのブーツのカカトが降ってきた。
「……ちぇっ」
腹立たしげな舌打ちだけを残して、ナガセの身体がその場から消失した。
と同時に、あたりに真紅の炎が一気に広がった。 |