〈1〉
無防備な——。
広い背中だと、リアンは思う。
この男が何を考えてレース越しに朝焼けなど眺めているのか、リアンには判らない。判りたくもない。
重要なのはただふたつ。
おびただしい傷に飾られた分厚いその背中が、あまりにも無防備にリアンのすぐ目の前にさらされている事実と、今のリアンになら、その筋肉の束をつらぬき、この男の心臓に風穴を開けることも不可能ではないという現実。
そのことに思いいたった時、白いシーツと甘い汗をまとってまどろみの淵に溺れかけていたリアンの意識は、どす黒い殺意とともに急速に覚醒した。
「————」
とろりと溶けていた瞳に鋭い光を宿し、リアンはしどけなく横たわっていた姿勢からひと息に飛び上がった。
気合の吐息もなく、ベッドのきしみもなく、ただシーツが大きくひるがえり、殺風景な部屋の空気をわずかにかき混ぜたが、その空気のたわみすらも、窓の隙間から吹き込んでくる暁天のそよ風にまぎれて消えた。
この手が鮮血にまみれることにためらいはない。リアンは一瞬で距離を詰め、しなやかに引き絞った右の貫手を男の大きな背中——心臓のあたりを狙って繰り出した。
——だが。
「あきらめの悪い女だ」
「!?」
指先に男の体温を確かに感じたというのに、リアンの貫手はむなしく空を切った。
直後、手首を掴まれたリアンは、無造作に、そしてすさまじいいきおいで振り回され、部屋の隅へと投げ出された。
「……っ」
一時的に三半規管が麻痺し、受身も満足に取れないまま、リアンは背中を強く打って息を詰まらせた。
「……何度やっても同じことだ」
嘲弄を含んだ野太い声が、リアンの裸身にシーツを投げかけた。
「くっ……!」
苦痛よりも屈辱からもれてくる呻きを噛み殺し、リアンはのろのろと身を起こした。
「——今のおまえの腕では、まだ俺の首は獲れん」
広い背中をシャツに包み、男は——デュークは笑った。
その太い首を、醜い傷が横切っている。
「俺が憎いか、リアン?」
「……!」
聞かずもがなのことを尋ねる男を睨みつけ、リアンは唇を震わせた。
デューク——男はそう名乗っている。
本名なのか偽名なのか、それはリアンにも判らない。
リアンにとってのデュークは、彼女に殺しの技術を叩き込んだ師であり、つねに彼女の上に君臨し続ける支配者であり、同時に彼女の両親を殺した仇でもある。
冷たく凍りついた心の奥底で憎悪を燃やし、デューク子飼いの殺し屋、あるいはデュークの情婦と呼ばれながら、リアンはただデュークに復讐することだけを考えて生きてきた。
もはや暗殺という行為に何の逡巡もなくなったリアンには、自分が生まれて初めて殺した人間が誰だったか思い出すことさえできなくなっていたが、しかし、自分が最後に殺す相手はデュークしかいないと心に決めている。
「——サウスタウン?」
情事の名残をサンローランのパリで吹き消し、豊かな金髪をカチューシャでまとめたリアンは、デュークを振り返って思わず聞き返した。
「あの……サウスタウン?」
「ああ。あの街を押さえるのが次の俺の仕事だ」
仕立てのいいコートを身につけ、アスコットタイで首の傷を隠したデュークは、鷹揚なたたずまいのせいか、ちょっとした紳士に見えた。
「……今度は誰を殺せばいいの?」
「別についてこなくてもかまわん。おまえがやりたいというのなら使ってやってもいいが」
「————」
リアンは目を細めてデュークを睨めつけた。
デュークはリアンが自分から離れられないことを知っていて、あえてそういうことをいう。
リアンをデュークのもとにつなぎとめているのは、復讐心という目に見えない鎖だ。
リアンにはいつでも好きな時にデュークのもとから去る自由があったが、どんなに屈辱にまみれても、リアンは彼のもとを離れることはできない。デュークを殺さないかぎり、リアンが彼から解放されることはないのである。
それを知っているから、デュークはあえてリアンに最大限の自由を認めている。何があろうとも、結局リアンは自分のところに戻ってくるしかないということを、この男は確信しているのだろう。
「……やるわ。どうせわたしにはほかに何のとりえもないんだから」
美しい横顔に浮かべた怒りの色をすぐさま消し去り、リアンはベッドの上の毛皮に手に取ろうとした。
それを、横から伸びてきたデュークの手が掴む。
「殺し屋が香水か」
毛皮のコートを持ってリアンの背後に立ち、デュークは低い声で笑った。
「仕事の時にはつけないわ」
デュークの無骨な手を借りてコートをはおったリアンは、卒然、振り返りざまにデュークの頸動脈を切り裂いてやりたい衝動に駆られた。
もっとも、たとえリアンがその衝動に忠実に行動したとしても、おそらくデュークはそれを難なくかわし、またリアンを笑うだろう。
今のリアンの実力では、まだデュークを殺すことはできない——。
ざわつく心を鎮め、リアンは瞳を伏せた。 |