〈4〉
デュークが白いボウタイを引きちぎると、太い首にあの傷が覗いた。
「“仕事”の時にはつけないんじゃなかったのか?」
炎が生み出す温度差が風を起こし、ふたりの髪を揺らしている。この夜風の中でも、デュークはリアンが噴いたパルファムの香りを敏感に感じ取っていたのか。
揶揄するように笑うデュークを見据え、リアンは髪をかき上げて喉もとに風を入れた。
「これは“仕事”じゃないわ。……プライベートよ」
「そうか」
みちり、と、異様な音がした。
デュークが拳を握り締めると、その手を包んでいた夜会用のシルクの手袋が、縫い目のところで裂けた。
デュークの構えは、野生の獣の威嚇のポーズに似ている。
ただでさえ大きな身体を何倍にも見せる、敵を威圧せずにはおかない雄大で攻撃的な構えから繰り出されるその拳は、事実、これまでに数え切れないほど多くの命を奪ってきた。
その中に、リアンの両親も、そして仲間たちの命も混じっている。
「……悪いが、俺のほうは“仕事”の途中だ」
「あら、また殺し屋に逆戻り?」
「おまえにはもう関係のない話だ。命が惜しければ今すぐここから立ち去れ。——それとも、いまさら両親のあとを追いたくなったか?」
「その口を今すぐ閉じなさい、デューク。……永遠にね」
わずかな怒気を乗せていい放ち、リアンは走った。
リアンを後押しするように、炎に包まれていたリムジンがまた小さな爆発を起こし、闇を押しのけてあたりを明るいオレンジの色彩に塗り潰す。その一瞬、デュークの視界の中では、おそらくリアンの輪郭は炎ににじんではっきりと捉えることはできなかっただろう。
デュークは左足を振り上げ、極端に低い姿勢で懐に踏み込んでこようとする疾風のごとき影を踏みつけた。
だが、デュークが実際に踏みつけたのは、実体のない本当の“影”だけだった。
デュークが眉を震わせて視線を上げた時、すでにリアンは残像だけを地上に残して宙を舞っていた。
「!?」
デュークがその両腕で首筋を防御するよりも、リアンのブーツの爪先がデュークの顎にかかるほうが早かった。
「お——」
自分のウェイトとスピード、そして遠心力をかけ合わせ、リアンは100キロを軽く超えるデュークの巨体をレッグシザースで投げ上げた。
「甘くなったのはあなたのほうじゃないの?」
デュークの驚きの声を心地よく聞きながら、リアンは落ちてくる巨体目がけてハイキックを放った。コンクリートブロックを平然と蹴り砕くヒールでの一撃をまともに食らえば、人間の頭蓋骨など簡単に陥没する。
しかしデュークは、空中で身体をひねり、胸骨を狙って飛んできたリアンの蹴りを両腕の筋肉でガードした。
「…………」
巨木の幹を蹴ったような感触に、リアンは人知れず舌打ちした。
「なるほど……腕は鈍っていないようだな」
リアンの鋭い蹴りも、急所にクリーンヒットしなければ、デュークが相手ではさしたるダメージにはならないらしい。すぐに立ち上がってきたデュークは、大きな裂け目ができてしまったテールコートを脱ぎ捨て、心底楽しそうに笑った。
「——だが、まだ俺には届かん」
「デューク!」
自分をあなどる男のセリフをさえぎり、リアンはふたたび走った。神速の踏み込みから、デュークのみぞおちを突き上げるかのような貫手を繰り出す。
それに反応したデュークが、リアンの頭上からハンマーのごとき拳を振り降ろしてきた。
「……!」
あたりの気圧が瞬間的に下がったように感じるほどの、すさまじい拳。
それを紙一重でかわしたリアンは、デュークの背後にすばやく回り込み、その首に両腕を巻きつけようとした。たおやかとさえいえる彼女の腕が首に絡めば、勝負は1秒で決する。リアンはその腕で、デューク以上の巨漢の頸骨をへし折ったこともあるのだ。
「届かんといったろう?」
「!」
デュークは身を沈めてリアンの腕の中からすり抜けると、そのボディサイズからは想像もつかない速さで振り返った。
「くっ!」
すかさず、リアンは左の回し蹴りをデュークの側頭部へと叩き込んだ。間合いが近すぎるがゆえに威力には欠けるが、スピードは充分、タフなプロボクサーに膝をつかせるくらいはできるはずの一撃だった。
それを、デュークは、わずかに身体をかしがせただけでこらえてみせた。
そして、笑いさえしたのだ。
「——俺をなめるなよ、リアン」
「……っ!」
本能的な恐怖に突き動かされ、咄嗟に間合いを広げようとしたリアンの蹴り足は、すでにデュークの手に捕らえられていた。
「やっ——」
もれかけた悲鳴は一瞬でかき消えた。
同時に平衡感覚が完全に破壊され、視界が赤黒く染まっていく。
まるでハンマー投げのハンマーのように、両足首を掴まれて振り回されているのだと、麻痺しつつある意識の片隅でリアンが理解した直後、彼女の身体は街路灯に激突していた。
そして、彼女の意識は完全に闇に呑まれた。 |