背中
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〈2〉

 桟敷席(ボックスシート)でオペラを観劇するのは初めてのことではない。
 今よりももっとずっと幼かった頃、わけも判らないままデュークに連れられて、各地のオペラ座を訪れたことがある。
 素手で人をミンチにすることさえできそうな大男とオペラ、そのふたつが、リアンの中ではいまだにうまく結びつかない。
 ついついもれてきた微笑を羽根扇子で隠し、リアンは眼下の客席を見下ろした。
 考えてみれば、こうしたフォーマルな場での立ち居振る舞い、マナーや着こなしといったもののすべてを、リアンはデュークのもとで学んだ。なぜデュークがリアンに貴婦人修行の真似ごとをさせたのか、いまだにリアンには理解不能だったが、それが今こうして役に立っていることを思うと、まるで無駄だったともいいきれない。
 舞台の上では、今まさにドン・ジョヴァンニが地獄の業火の中に放り込まれようとしている。全編のクライマックスシーンだ。
 しかし、リアンがオペラグラスで見ているのはセクシーなジョバンニ役の男優ではなく、客席の中に混じっている大男だった。
「……息災のようで何よりだわ」
 久しぶりに見たデュークの姿に、リアンは思わずひとりごちた。
 前回の「キング・オブ・ファイターズ」をきっかけに、〈アデス〉からあたえられた〈メフィストフェレス〉を失ったデュークは、あれ以降、長い間その姿をくらましていた。
 ひょっとしたら、作戦失敗の罪を問われて粛清されたのではないか——そんな考えがリアンの頭をよぎることもあったが、ああして役者たちの歌声に聞き入っている姿を見るかぎりでは、そうした様子はなかった。
 オペラグラス越しとはいえ、あまり長く凝視していると、デュークがこちらの視線に気づくかもしれない。ボックスの奥に身を引いたリアンは、ハンドバッグの中から“仕事”用のブレスレットを取り出した。
 ブレスレットの表面にはめ込まれたエメラルドカラーのクリスタルを撫で、リアンはオペラ座の天井を見上げた。
〈アデス〉が打ち上げた対人攻撃衛星へのアクセス権は、まだ生きている。リアンがこのブレスレットを通して座標を送信しさえすれば、数秒後にはデュークの頭上から高出力のレーザーが降りそそぐだろう。
 常人なら、レーザーが集束して殺傷力を持つ前に身をかわすことは不可能に近いが、デュークならどうか。
「————」
 ためしてみる価値がないわけではないが、結局、リアンはブレスレットをバッグに戻して席を立った。
 無関係の人間を巻き込むのはプライドが許さない——などと甘いことをいうつもりはない。
 ただ、デュークを殺す時は、この手で息の根を止めてやりたい。
 そう思っているだけだ。

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