〈2〉
いつものコースを、いつものペースで。
ミュージックプレイヤーの液晶画面でここまでのタイムを確認し、ユリは頬を伝う汗をリストバンドに吸わせた。
と、その時。
「——っと!」
横合いの路地から不意に出てきた人影に気づき、ユリは咄嗟にサイドステップで身をかわした。
「……これは失礼」
それは、パナマ帽を目深にかぶった、どこかくたびれたスーツ姿の小柄な老人だった。目の前に現れたユリに少し驚いていたようだが、軽く帽子をかかげて挨拶したその表情には、おだやかな笑みしか浮かんでいない。
「こ、こちらこそどうもすみません」
ユリはヘッドホンをはずして慌てて頭を下げ、その時ちらりと上目遣いに、帽子の下の顔に目を走らせた。
わずかに見えた顔つきからすると、アジア系——それもどうやら日系人のようで、髪にはちらほらと白いものが混じっていたが、最初にユリが考えていたよりずっと若い。痩せぎすで、背中を丸めていたからそう見えたのだろう。50代なかばほどか、少なくとも老人という年齢ではなさそうだった。
左手にステッキを持った男は、もう一度ユリに目礼し、彼女が走ってきたほうへと歩いていった。その足取りはしっかりとしていて、やはり老境に入った者のそれとは思われない。
「あの人、どこかで——」
その後ろ姿を、ユリは眉間に小さなしわを刻んでじっと見送った。
今の男をどこかで見たことがあるような気がする。どこで見たのかは思い出せないが、そんな気がしてならなかった。
それに、今にして思えば、腑に落ちない点もいくつかある。
そもそも、見通しの悪い路地から出てきた人間とユリが出会い頭にぶつかりそうになるということ自体、まずあることではない。ロードワーク中はつねに音楽を聞いているユリだが、それでもボリュームは抑えているし、後ろから近づいてくる自転車や人の足音くらいは聞き分けられるという自負もある。
にもかかわらず、あのパナマ帽の男が出てくる足音や気配を、ユリは感じ取ることができなかった。ユリの感覚が鈍っていたというより、男のほうがそうさせなかったのかもしれない。去りゆく男の足取りをじっと観察していたユリは、その男が、ほとんど足音を立ずに歩いていることに気づいていた。わざとそういうふうに歩いているのではなく、そう歩くことが当たり前になっているような、ごく自然な足の運び方だった。
あんな歩き方ができるのなら、あの時こちらが避けずとも、男のほうでいくらでもかわすことはできたかもしれない。
そんなことを考えながら、あえて男に声をかけることもなく、ユリはじっとその場に立ち尽くしていた。不思議な既視感と違和感が、彼女を足止めしているかのようだった。
男の背中が曲がり角の向こうに消え、ようやくひと息ついたユリは、どこからか聞こえてきたかすかな呻き声に今頃になって気づき、さっき男が出てきた路地の奥を覗き込んだ。
「!」
真昼でも明るい陽射しが降りそそぐことのない、陰鬱な路地の片隅に、数人の男が倒れていた。
倒れていたのはいずれも大柄な男たちで、あたりには数本のナイフが転がっている。人を見た目だけで判断してはいけないと判っていたが、どう見てもこの男たちにこそふさわしい凶器だった。
もっとも、ナイフには誰かを傷つけたような痕跡はまったくない。逆に男たちのほうは、肩や顎の関節をはずされた上、急所に的確な追い討ちを食らって悶絶していた。この情況からすれば、恰好の獲物をこの路地の奥まで連れ込んだチンピラたちが、予想外の反撃を受け、刃物を使う間もなく一方的に叩きのめされた——といったところだろう。
だが——。
ユリは路地を出てさっきの男の姿を捜したが、どこへ行ったものか、すでにこの近くにはいないようだった。もしあのチンピラたちを倒したのがさっきの男なのだとしたら、相当の使い手に違いない。
「……!」
ロードワークでかいた汗はすっかり冷えきっていて、ユリは思わず身震いしてしまった。