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〈5〉

「大人」
 ロバートとパイロンが歓談している部屋へと、チャイナ服の若者たちが足早に入ってきた。本人は抑えているつもりだろうが、呼吸が乱れていることをロバートは目ざとく見抜いている。ことさら神経を研ぎ澄ませるまでもなく、部屋の外が何やら騒がしいのが判った。
 背後に控えていた財団のボディガードたちがスーツの懐に手を伸ばすのを制し、ロバートは箸を置いた。
「…………」
 若者から耳打ちされていたパイロンは、ひとつ大きく深呼吸し、おもむろに椅子から立ち上がった。その身にまとっていた好々爺然とした雰囲気が、すでに完全に消えている。
「……何ぞあったんかいな?」
「そうらしい。しばしこのままお待ちいただけるかのう?」
「待つだけはつまらんな。見物しとってもエエか?」
 ロバートはそういって不敵に笑った。
 外で何が起こっているのかは判らないが、屋敷全体を包む空気がピリピリとしてきていることにはロバートも気づいていた。ロバートにとっては懐かしい、闘いを前にした格闘家の放つ覇気を感じる。
 ただ、それが向けられているのは自分ではない。ロバート以外の何者かに対して、この屋敷に詰めている血気さかんな若者たちが覇気を高めているのである。
 しばらく考え込んだあと、パイロンはふかぶかとうなずいた。
「おぬしは大事な客人じゃ。もしおぬしに何かあれば、ご尊父に申し訳が立たぬばかりか、師父の留守を預かるワシの面子も立たん。何があろうといっさいの手出しをせぬと約束できるのであれば、見物くらいはよかろう。ほかに何の余興も用意できぬし……の」
「おおきに」
 ロバートはパイロンたちにしたがって飲茶の席をあとにした。

 伝統的な四合院作りの屋敷の庭先には、いずれもパイロンの弟子なのか、揃いのチャイナ服を身に着けた若者たちが10人以上も集まっていた。アメリカ各地のチャイナタウンでは、中国的な生活様式や言葉さえも忘れ、アメリカナイズされた華僑の若者が増えているというが、ここのチャイナタウンには古きよき伝統がまだ残っているらしい。
 その若者たちの輪の中に、ひとりの東洋人が立っていた。
 パイロンとともに奥の部屋から出てきたロバートは、若者たちに囲まれているその男を見た瞬間、我が目を疑った。
「まさか——ウソやろ……?」
 それは、ロバートもよく知っているはずの男だった。
 痩せぎすの東洋人は、ステッキを片手に背を丸めるようにして立っていた。そのせいで、一見するとひどく年を取った小柄な老人のように見えるが、実際にはさほどの年ではあるまい。せいぜい50代の後半といったところか。
 しかし、それでもまだ年齢が合わない。ロバートの知っているその男は、本当ならまだ50にもなっていないはずだ。もし同一人物だとすれば、短期間のうちに10歳も年を取ってしまった計算になる。深いしわが無数に刻まれたその東洋人の顔は、誰がどう見ても40代のものとは思われなかった。
 しかし、この東洋人こそが、チャイナタウンの若者たちをいたずらに刺激し、殺気立たせている張本人に違いなかった。枯れ枝のようなその身体からは、隠しようもない挑戦的な闘気があふれ出している。そのような空気をただよわせてここへやってくるということは、声高に道場破りにきたといっているも同然であった。
 ロバートは咄嗟にパイロンを見た。猿の面のせいで表情は窺えなかったが、彼もまた少なからず驚いているのだろう。この老人が息をするのも忘れて立ち尽くしているのが、ロバートにも判った。
 ふたたびロバートが東洋人のほうに目を向けると、東洋人のほうでもロバートを見ていた。
 やはり間違いない。
 あれは、ロバートが知っているあの男だった。
「……リー・ガクスウ師はおられるか……?」
 聞き苦しくしわがれた声で、東洋人が尋ねた。おそらくパイロンへの問いだったのだろう。
「師は本土へおもむいておられる。しばらくは戻られぬよ」
 殺気立つ若者たちを抑え、パイロンは答えた。
「不在か……」
「師に何用かの?」
「確かめてもらいたいものがあったのだが——無駄足であったか」
 男は落胆の吐息とともにかぶりを振り、男はパイロンたちに背を向けた。
「師に何を確かめろと?」
「強さを」
「強さ……とな?」
「今のわしと、ある男の強さを……だ」
 肩越しにパイロンを振り返った東洋人は、白髪混じりの髭を震わせて陰惨に笑った。
「リー・ガクスウが第一線を退いたのは、若かりし日のタクマ・サカザキとの闘いで負った傷がもとだと聞きおよんでいる……。かのリー・ガクスウを引退に追いやったほどのタクマ・サカザキの強さを誰よりもよく知るのは、やはりガクスウ本人をおいてほかにはあるまい?」
「——!」
 男の口からタクマの名前が出たことで、ロバートは思わず身を乗り出した。
 それを押しとどめたのは、彼の革靴の爪先をそっと踏みつけたパイロンのさりげない動きであった。
 ここはあくまでチャイナタウンであり、そこで起こるトラブルにロバートが口出しするのは礼儀に反する行為でしかない。それを思い出したロバートは、唇を噛み締め、男とパイロンのやり取りを見守るしかなかった。
「おぬしの狙いはタクマ・サカザキか」
「……いや」
 男はゆっくりと首を振った。
「殺気の失せた今のタクマになど興味はない。相対せば、ものの10秒ほどでねじり殺せよう」
「何やと——」
 怒りと驚きでロバートが息を呑む。その場にいるロバートが、ほかならぬタクマの弟子と知った上で、この男はそのようなことをいっているのに相違なかった。
「わしはただ、わしの今の強さが全盛期のタクマを超えているということを確かめられればそれでよい。そう思ってガクスウ師に会いにきたのだが……」
「それはつまり、我が師を試金石にしようと、そういうことかね?」
 たっぷりとした両袖の中に手を入れたまま、パイロンが一歩前に踏み出した。その足元から流れ始めた静かな気迫に、殺気立っていた若者たちが思わず一歩下がる。
 ただ、彼らの輪の中央にいた東洋人だけが、微動だにせずそこに立ち尽くしていた。
「……気に障ったのなら謝ろう」
「別にかまわんよ。……それより、ワシでは駄目かね?」
「何がだ……?」
「師の強さを一番よく知っているのはこのワシじゃ。そして、タクマ・サカザキの強さもまんざら知らぬでもない。……ワシではいかんかね?」
「そうだな……一線を退いた貴様に勝てぬようでは、タクマにもガクスウにもおよぶまい」
 そういいながらパイロンに向き直った東洋人は、しかし、その目ではロバートを見ていた。この男は、パイロンとではなく自分との闘いを望んでいるのだと、ロバートは直感的にそう悟った。
「御曹司」
 黒服のボディガードたちが、両脇からロバートの腕を掴んで抑えた。
「もはやあなたひとりのお身体ではないのです。ご自重ください」
「くっ……!」
 ロバートには、彼らを強引に振り切ることもできた。だが、今の自分の地位を思えば、軽はずみなことはできない。自分に大きな期待をかけている父を裏切って目の前の敵に立ち向かえるほど、ロバートは刹那的な生き方のできる男ではなかった。
 何より、パイロンの心遣いを無にするわけにはいかない。おそらくパイロンは、この東洋人がタクマの弟子であるロバートとの闘いを望んでいると察した上で、それを阻止するためにみずから相手になろうといい出したのだ。でなければ、老境に入ったこの拳士が、わざわざ名乗りを上げるはずがない。
 その時、からりと乾いた音がした。東洋人の手を離れたステッキが、石畳の上に転がったのである。
 それを合図に、パイロンが動いた。
 両の袖で顔を隠し、すぐさまその手を降ろした時には、パイロンの顔を覆っていた仮面が、隈取のどぎつい威圧的なものに変わっていた。
 ——という伝統芸が中国の四川地方にある。衣装の早変わりならぬ仮面の早変わりのことで、大きな袖で顔を隠したほんの一瞬のうちに面をつけ換える芸だが、パイロンが見せたのもそれだったのかもしれない。
 闘いの面をかぶったパイロンは、石造りの階段を蹴って軽やかに跳躍し、男に襲いかかった。ひと息に間合いを詰め、矢継ぎ早に突きと蹴りを繰り出す。いつしかその拳には、鉄の爪が輝いていた。
 戦慄のアクロバットクロー——。
 電光石火、変幻自在の闘いぶりを評して、パイロンをそんな異名で呼ぶ者もいる。老いたりとはいえ、確かにその名に恥じぬスピーディな攻撃であった。
 だが、同時にロバートは、息をもつかせぬパイロンの攻勢が、なぜかひどく危ういもののようにも見えた。
 パイロンの手数の前に、東洋人は反撃に転じることができずにいる。ただ、いい方を変えれば、それは男がパイロンの攻め手をすべてさばききっているということでもある。もしこのままの状態が続けば、老齢というハンデがあるぶん、パイロンのスタミナが先に尽きるのではないか。スピードが持ち味のパイロンが、ひとたびその動きを鈍らせてしまえば、闘いの趨勢はおのずと決まってしまう。
 ——と、ロバートがそんな懸念をいだいた刹那、勝負はまばたきひとつのうちに、意外なほどあっさりと決した。
「がっ——」
 血を吐くような呻き声をもらし、パイロンが石畳の上にあおむけに倒れていた。
「……っ!」
「師父!?」
 闘いを見守っていた若者たちが悲痛な叫び声をあげた。師匠の敗北を信じられずに思わずほとばしった声であった。
 しかし、ロバートはいかにしてパイロンが敗れたかを正確に理解していた。
 左右の旋風脚のコンビネーションから、流れるような動きでパイロンが右の突きを繰り出した瞬間、男は鉄の爪をかわしながら左手を伸ばしてパイロンの右袖を掴むと、腕を巻き込むようにして腋の下にかかえ込み、寸毫の躊躇もなく老拳士の肘をへし折った。と同時に、相手の身体を引き寄せながら、右の掌底をパイロンの胸に叩き込んだのである。
 右腕を折られ、胸骨にもひびくらいは入ったに違いない。たとえパイロンがあと20歳若かったとしても、このまま闘い続けるのはもはや不可能だった。
「ぐ……」
 パイロンの仮面の下から、赤い血が細い糸となって流れ落ちている。今の胸への一撃で、内臓に傷がついたのかもしれない。
「おのれ……!」
「よくも師父を!」
「ま、待て——」
 我に返った若者たちが、パイロンの仇を討とうと東洋人に殺到する。パイロンがかぼそい声で制止しようとしたが、怒りに支配された彼らにその絶え絶えの声は届かなかった。
 パイロンとの闘いでろくに汗もかいていなかった男は、いっせいに襲いかかってきた若者たちを見て、陰惨に笑っただけだった。
「リー・パイロンの弟子にしては……落ち着きがないな」
 その言葉が予言していたかのように、わずか数十秒後には、若者たちはすべて男の足元に倒れ伏していた。ある者は踏み込みのいきおいを利したカウンターによって顎を砕かれ、またある者は身をかわされたところを背後から一撃され、またある者は、上段の蹴りをいなされて後頭部から石畳に叩きつけられ——そして、ひとりの例外もなく、若者たちは沈黙させられたのであった。
「み、見事……!」
 ロバートにかかえ起こされたパイロンが、血の糸をぬぐった左手を伸ばし、男を指差した。
「今のおぬしなら……なるほど、タクマを倒せるかもしれぬ……」
「そうか……」
「……じゃが、それではおぬしの餓えは満たされまいよ」
「…………」
 パイロンの指摘に男は目を細めた。もともとしわの多い男の顔が、さらに渋ついたように見えた。
「……で、あろうな」
 長い沈黙を置いてそう呟いた男は、自分が倒した若者たちなどもはや一顧だにせず、ステッキを拾ってきびすを返した。
「……!」
 反射的に立ち上がろうとしたロバートのスーツの襟を、パイロンの左手が掴んだ。
「約定をたがえる気か、御曹司……?」
「せ、せやけど——」
「おぬしが今どこに立っているか……ゆめ忘れるな……」
「それを大人がいうんか? あんさんこそ、こないな——」
「ワシはよい。これでよいのじゃ……ガクスウ師がお戻りになられたと知っても、もはやあの男は二度とここへは来ないであろうしな……」
 仮面越しに東洋人の背中を見送り、パイロンは苦しげに笑った。
「……それより、このことをリョウに伝えるのじゃ——」
「————」
 ロバートは無言でうなずいた。
 ガルシア財団の後継者などといっても、もはや自分にできることはそのくらいしかないということを、ロバートはよく理解している。これからの闘いに割り込んでいくには、ロバートはいささか実戦から遠ざかりすぎていた。
「朝晩の稽古の時間、もうちょい増やさなアカンわ」
 忸怩たる思いを噛み締め、ロバートは唇をゆがめた。

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