〈3〉
ユリがロードワークから帰ってみると、自宅に父の姿がなかった。いつもなら、庭に出て軽く稽古をしたり庭木をいじったりしているはずの時刻だが、きょうにかぎっては庭にも寝室にもいない。
さっき見た男の話をしようと思って父を捜していると、道場のほうから気合のこもった鋭い声が聞こえてくる。
「あれ——?」
道場を覗くと、空手着に着替えた父が、上半身を肌脱ぎになって拳を繰り出している。
ただ、いつもの朝の稽古とは何かが違っていた。つねになく鬼気迫るものを感じる。いってみれば、昔の父に戻ったようだった。
その迫力に気圧されて声をかけられずにいると、ユリの背後で砂利を踏む音がした。
「ユリ」
「あ、おにいちゃん」
こちらもロードワークから戻ってきたばかりなのか、リョウは首からかけたタオルで汗をぬぐっている。リョウは毎日ユリの倍の距離を走っているが、慣れているせいか、特に息が上がっているようには見えなかった。
「どうしたんだ、親父のやつ?」
同じく道場の中を一瞥し、リョウはユリに尋ねた。
「わたしにも何が何だか……戻ってきたらこんな感じだったし」
「おまえ、親父に何かいったんじゃないのか? 最近太ったんじゃないか、とか」
「いってないよ、そんなこと」
「本当か? よく判らんが、男親というのは年頃の娘のひと言にぐさりと来るもんらしいからなぁ」
「だから何もいってないってば!」
自分を悪者にしようとする兄の肩を軽くひっぱたき、ユリは道場を離れた。
いつもなら、このまま笑い話ですませられたのかもしれない。しかし、きょうはなぜかそんな気になれなかった。自宅のほうへと戻るユリの視線は足元に落ちたままで、脳裏からは稽古に打ち込む父親の厳しい横顔が離れない。
「……確かに、あれはちょっといつもとは様子が違うみたいだな」
父親の稽古風景をしばらく観察していたリョウが、さっきまで見せていた笑みを収めてユリに追いついてきた。
「ゆうべまではいつもの親父だったんだが……俺たちがいない間に何かあったんだろうか?」
「……そういえば」
「何か心当たりでもあるのか?」
「ううん、おとうさんのこととは特に関係ないと思うんだけど」
そう前置きをして、ユリはロードワークの途中で出会った男のことをリョウに話した。
「猫背で痩せた東洋人、か……」
「別にその人がどうのっていうのをこの目で見たわけじゃないんだけど、ちょっと気になって……足の運びとか身のこなしとか、ふつうにすごかったし」
「そんな東洋人の武術家がいれば、確かに親父が何か知っていそうではあるな」
「うん。わたしもそう思って話を聞こうかと思ったんだけど——」
ユリはそこで言葉を途切らせ、道場を振り返った。
父の稽古はまだしばらく終わりそうにない。
ユリは気難しげな顔をしている兄とともに自宅に戻り、シャワーを浴びてから朝食の支度に取りかかった。