オリジナルサイドストーリー CLOSE
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〈8〉

 生ぬるい風が吹いている。
 海が近いせいか、潮の香りが混じった夜風だった。
 バイクを降りたリョウは、伸び放題の青草をかき分けてその廃墟へ向かった。
 ここへ来るのは何年ぶりか——。
 そこはかつて、リョウがタクマと最初で最後の真剣勝負を繰り広げた場所だった。
 あの頃、タクマは天狗の面をかぶってミスター・カラテと呼ばれていた。さらわれたユリを捜すうちに、リョウはこの荒れ果てたかつての極限流の道場跡にたどり着き、そこで父と再会したのである。

 リョウを出迎えるかのように、無人のはずの廃墟には篝火が焚かれていた。ときおり、薪のはぜる音がうつろに響いて、あたりの静けさを否が応にも際立たせていた。
 男は、篝火を背にして、腕を組んだままじっと立ち尽くしていた。石組みの床の上に男のくっきりとした影が落ち、炎の揺らめきに合わせて震えている。炎の赤さと影の黒さが、しわの多い男の顔にどぎついコントラストを描き出していた。
「……来た、か……」
 目を閉じていた男は、リョウの下駄が床で鳴る音を聞きつけ、静かに目を開いた。いや、おそらくこの男なら、リョウがここへやってくることをもっと前から察していたに違いない。
 数メートルの距離を置いて男と対峙したリョウは、相手の顔を見つめて目を細めた。
「ロバート・ガルシアから聞いてきたか……? それとも、タクマか?」
「親父は何もいわんさ。近頃は年甲斐もなく特訓なんかやっているよ」
 リョウは冗談めかして笑った。男も小さく笑ったようだが、それはリョウの笑いと少し意味が違うらしかった。
「なあ、あんた」
 今度は逆にリョウが尋ねた。
「これまでどこで何をしていたんだ? 一度も国に戻ってないそうじゃないか」
「わしがどこにいたかは……わしももう覚えていない。覚えておるのは、貴様とタクマに勝つために、ただひたすらおのれの技を磨いていたということだけだ——」
「そうだな……あの時とは大違いだ」
 男——藤堂竜白の双眸には、闇の中でちらつく蝋燭の炎のような、何ともいえずほの暗い輝きがある。それを真正面から見据え、リョウは下駄を脱ぎ捨てた。
「——それがこうしてサウスタウンにやってきたってことは、俺たちを倒す自信がついたって意味かい?」
「さて……少なくとも、わしはそのつもりでここへ来た。すぐに落胆させられることになったがな……」
 竜白は聞き取りづらいぼそぼそした声で呟いた。
「わしがきょうまで腕を磨いてきたのは、ただ貴様ら極限流に勝つためであった。だが、いざサウスタウンへ戻ってきたわしが目にしたのは、わし自身の仇とも思っていたタクマのあの体たらくだ。あのような男に勝っても、むなしさが増すばかりだ。このわしの絶望が貴様に判るか、リョウ……?」
「親父に何を期待していたのかは知らないが、親父がリー・ガクスウとの闘いで負った古傷を今もかかえていることぐらい知ってたんじゃないのか?」
「だとしてもだ」
 チャイナタウンに現れた時、あるいはユリが見かけた時は、くたびれたスーツ姿だったという藤堂竜白は、今はリョウにも見覚えのある道着に袴といういでたちだった。ただ、赤い胴丸はつけていない。
「……たとえ傷つき、老いたにせよ、タクマはタクマのままでいるべきであった。殺気の失せた今のタクマなど闘う価値もない」
「つねに殺気立ってれば強いのかい? 俺はそうとはかぎらんと思うがね。不器用な親父もようやくそのことに気づいたんじゃないかって思うのは、俺の身贔屓かもしれないが」
 そう応じたリョウには、殺気というものがまったくなかった。かつてのタクマが剥き出しの殺気をまとっていたとするなら、一方のリョウはどんな闘いでも殺気というものを放つことがない。親子であり、同じ極限流空手家でありながら、リョウとタクマの間にはこれほどの差があった。
 しかし、リョウがいうように、殺気がないからといってリョウのほうがタクマより弱いとはかぎらない。
 竜白は重々しくうなずいた。
「で、あろうな……もはや極限流最強はまぎれもなく貴様、リョウ・サカザキだ——」
 竜白が組んでいた腕をほどいてだらんと垂らした。構えといえるような姿勢ではない。ただ単に、肩の力を抜いて身体に沿って腕を垂らしただけの、自然体というのさえはばかられる姿勢だった。
 だが、それこそが今の竜白の不動の構えなのだということを、リョウはロバートからの電話ですでに知っていた。柳の枝が風に逆らうことなく柔らかくなびくように、竜白は、あの状態でこちらの攻撃を流れるように受け流し、逆にその力を利用して痛烈なカウンターを打ち込んでくるのである。以前リョウが闘った時の竜白とは、まったくの別人と考えたほうがいい。
「ひとつ、約束してくれ」
 革ジャンを脱ぎ捨て、リョウはいった。
「——ことがすんだら、一度日本へ帰れ」
「いわずもがなのことを……もはやタクマとの再戦に未練はない。貴様に勝って、わしと極限流との因縁に終止符を打つつもりだ。でなくば日本になど戻れるか……」
「そうじゃない。あんたが勝とうと俺が勝とうと、結果がどうなろうと一度日本に帰れといってるんだ。……娘さんがあんたを捜してあちこち旅して回ってるってこと、あんたは知らないのか?」
「————」
 つねに感情を抑えて泰然と構えていた竜白の表情に、この日初めてわずかながらも変化が生じた。おそらく、香澄のことを思ったのだろう。
「俺がいうのも何なんだが、武道家の父親ってのは不器用な連中が多いらしいな」
「……わしが子供に残してやれるものなど、この技と、生きざまのほかに何もない」
「ウチも似たようなもんさ」
 肩を揺らして笑ったリョウは、懐から塗りの剥げた天狗の面を取り出し、おもむろにかぶった。それは、かつてタクマがミスター・カラテと名乗っていた頃にかぶっていた、曰くつきの面であった。
「……覇王翔吼拳を破らないかぎり、極限流に勝つことはできないぜ?」
 そう呟いたリョウの構えは、タクマのそれによく似ていた。もしここでリョウがその身に殺気をまとえば、あるいは竜白は、自分が対峙しているのがタクマ・サカザキだと錯覚していたかもしれない。
「面白い——」
 額に巻いた鉢金を締め直し、竜白はにやりと笑った。
「——その面、日本への土産に持って帰るとするか」
 ざわり——。
 青草を揺らして吹きつけてきた風が、篝火の炎をひときわ大きく揺らめかせた。

 どちらが勝つにせよ、勝負は一瞬、一撃で決着がつくだろう。何の根拠もなく、リョウはそう思っていた。
 今宵の夜風のように——あるいはそれに逆らうようにして——竜白のほうから押し寄せてくる覇気を受け止め、リョウは仮面の下で笑っていた。
 肌がひりつくようなこの瞬間を楽しいと思ってしまうところが、自分の駄目なところなのだろう。勝利に対する執着心が薄く、ただ闘っている瞬間さえ満たされていれば、その結果はどうでもよくなってしまう。最近は特にそうだった。
 そんな自分が果たして藤堂竜白に勝てるのか、それはリョウにも判らない。
 判らないから、こうしてここに立っているのである。
 自分たち親子が竜白の人生を狂わせてしまったことへの自責の念は確かにある。だが、それ以上に、今はただこの強い武道家と闘ってみたかった。素顔を隠した仮面は、闘いの間だけ、竜白に対する同情を切り捨てるためのものだった。
 足の指先の力だけで、リョウはじりじりと間合いを詰め始めた。
 そこに遺恨はなく、憎しみも殺気もなく、心地よい緊張感だけがあった。

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